プロローグ

 僕は、下手すぎる文章が書けない代わりに、上手すぎる文章が書けない。  ナボコフやマッカーシーのように美しい言葉や表現には凝らないし、かといってそういった工夫をしようとも思わない。  理由なら分かっている。  誰かの書いた文学や物語を吸収しようとしても、退屈で数ページの間に眠りこけてしまうからだ。  かと言ってそういった作品の話題になると今みたいに知ったかぶりをしてしまうし(ナボコフやマッカーシー、実は読んだこと無いんだ)、そのことがバレてしまわないかドキドキするくらいには、つまらない人間だ。  そんな人間が第一ページに何かを綴ろうとした時考えるのは、誰かが感心するような言い回しや、捻くれた表現を披露しようとすることだ。  その時ばかりは付け焼き刃もいいことに、辞書や著名な文学を机に並べ、立派な読書家を演じ、そうして生まれるのが、誰かのコピーのような文章や、飛ばし飛ばしで書き進めた駄文の羅列だ。  そのことも愛せれば立派なセラピストや修道士になれるのかもしれないけど、おそらく僕には無理だろう。  僕はそんな中途半端なヤツは愛せないし、愛そうとも思わない。  何せ、この文章ですら途中から描き始めたような、中途半端なモノだから。  話を戻す。何の話を戻したのか分からない方は、この文の一行目を読んで欲しい。  文才も無い僕が、誰かを「あっ」と言わせるために、悩みに悩み抜いて書き出した第一行目だ。  これは既に実証済みだろうけど、関連する項目で一つ付け加えたいことがある。  それは、誰もが、誰にとっても無意義な話を書くことはできないということだ。  どんな駄文でも暇つぶしになってしまうし、時間を無駄にしたとしてもそれはある種、童話のような教訓になってしまう。  くだらない下ネタや下劣な話題も、「そんなくだらない事を書く人間がいるのだ」という実証に繋がるのだ。  幾度も重ねられた実証を踏襲するのは気が滅入るし、僕にとっても面白く無い。  まあ、つまり、何が言いたいのか? という話だけど。  ――これは僕による、僕のための、ひどく個人的な物語だ。  氷点下はゆうに下回っているであろう。  白い吐息さえ判別の難しい程の猛吹雪の中、夜陰やいんに溶け出したような黒髪を揺らす少年が、雪の深海から這い上がったように息を切らして、寒山かんざんを彷徨さまよっていた。  東アジア系。十は確実に過ぎ、十五には届かない年頃の風貌ふうぼう。  この極限の環境において、少年の装いはあまりに無防備だった。  薄手のジャンパーは烈風れっぷうに翻弄ほんろうされ、鉛のように重くなったジーンズが、容赦なく体温を奪い去っていく。  申し訳程度の山岳ブーツは、彼が一歩踏み込むたびに雪へと没し、形を明かさない。  それでも、彼は止まらない。凍結寸前の肺を無理やり駆動させ、爆はぜるような喘鳴ぜんめいを漏らしながら、何かに憑りつかれたように足を突き出す。  進路を幾度も変更するその試みに、理知的な意図など存在しない。ただ、死地を嗅ぎ分ける獣のごとき本能だけを頼りに、冷暗れいあんたる雪嶺せつれいの迷宮を突き進む。  方向感覚は、とうの昔に喪失していた。  少年自身、どこへ向かっているのかさえ判別不能であろうその驀進ばくしんは、もはや足掻きというよりかは、祈りに近いように思える。  ――ヒュゴオオッ。  鼓膜を圧する咆哮ほうこうとともに、氷の礫つぶてが少年の全身を打ち据える。朦朧もうろうとした意識の輪郭りんかくが白く溶けかかったその時、遠方から大気を叩き割るような炸裂音が響いた。  地響きを伴う雷鳴のごときその音は、この静寂の死山において、剥き出しの殺意を鮮烈に主張していた。  ガオンッ! ガオンッ! 「ああ――ああああッ!」  叫びとも祈りともつかぬ声を上げ、少年は半狂乱となって雪面を散らした。  幾度肺を焦がし、幾度意識を飛ばしかけたか。底無しの無意識下を突き抜けた果ての果てに、少年はようやく目的地に辿り着いていた。 「あ、ああ……」  視界の先。そこには、目を覆いたくなるような惨劇さんげきが横たわっていた。  白雪を冒涜ぼうとくするように広がる鮮血の絨毯じゅうたん。  その上に――少年の最愛の二人が折り重なるように倒れている。  武装した巨躯きょくの黒人男性と、モデルのように容姿端麗ようしたんれいな白人女性。その肢体したいからは、今や生命の残滓ざんしたる赤がドロドロと溢あふれれ出していた。  その傍かたわら。  一挺の拳銃から、吸いかけのタバコのように、控えめな硝煙しょうえんを吐き出させている青年がいた。  少年と同じ東アジアの面差おもざし。  ポップスターのように整った顔立ちには、場違いなほど軽薄な静寂が宿っている。目元を隠す長めの髪が寒風に揺れ、十代とも二十代ともつかぬ不思議な影を落としていた。  青年は、呆然と立ち尽くす少年を他人事のように眺め、呟く。 「ああ、君が……探す手間が省けたよ」 「ああ――あああああ!!」  少年は弾かれたように雪面を跳ね、青年へと肉薄した。手には武器も無い。ただ剥き出しの殺意と、凍え切った赤黒い拳だけを突き出して。  青年は、映画の悪役のような勿体もったいぶりは一切見せなかった。右手にしなやかに握られた拳銃を、迷わず少年の脚へと向ける。  ガオンッ!  閃光が迸ほとばしり、二つの暗影を濃くさせた。少年が聞いた雷鳴の正体は、「コレ」だった。  旋条ライフリングで高速回転を与えられた弾丸が、音速を置き去りにして少年の左膝を粉砕し、真っ赤な花を咲かせる。 「……ッ!」  少年は、糸の切れた人形のように雪面へ崩れ落ちた。青年はつまらなそうな表情とは裏腹に、訓練された精密な動作で銃口を向けたまま、静かに距離を詰める。 「うーんと……ハハッ、何の用かな? まさか死ににきたわけじゃないよね?」  その瞬間、少年がガバッと跳ね起き、隠し持っていた〝あるモノ〟を向けようとした。  ガオンッ! ガオンッ!  二連の雷鳴。獣じみた絶叫とともに、少年の手から踏み潰したケチャップのような鮮血が噴き出す。 「おっと、拳銃を隠しているのは気づいていたよ」  雪の上に、黒い鋼鉄の塊がポトリと落ちた。青年が持つものと同型のピストルだ。 「眠いかい? この天候、その怪我だ。君はもう、長くはない。最後に言うことはある? 聞いてあげるよ」  少年の表情からは、とうに痛みが消失していた。それは、今にも燃え尽きようとする暖炉の残滓ざんしのような、危うい抵抗だった。 「何もないなら、僕の方からどうでもいい話をしていいかな?」  少年が「ああ」と呟いた。  それは肯定ではなく、ただの慟哭どうこくだった。青年は感情の読み取れない薄ら笑いを浮かべたまま、淡々と口を開く。 「とある男が、自分探しの旅ってのに出てみようと思ったんだ」  氷の礫が、倒れ伏す少年に追い打ちをかける。 「その旅路は険しかった。ありとあらゆる苦難が待ち受けていた。旅人一人の力では、決して成し遂げられなかっただろうね。彼が旅を続けられたのは、優秀で勇敢な『家族』の存在があったからだ」  不意に、青年は無邪気に笑った。 「でも、旅人は家族を殺した。……何故だと思う?」  そこまで聞いたところで、少年の意識は極夜きょくやの漆黒へと消え失せた。