スノダ・ケイ
最低な目覚めだった。
鼻腔をくすぐるのは不快な薬品の匂いと、真っ白な天井。
僕は、赤ん坊みたくベッドに寝かされていた。
脳裏に浮かぶのは、雪山の極寒と、絶え間なく流れ出る血液とともに失われていく体温だった。
凍てつく冷気が体に染みこみ、指先が今にも冷えてきそうな予感がする。
それと共に、アイスを口いっぱいに含んだ時みたいなツーンとした寒さを思い出し、身震いした。
だけど、それらはパズルのピースみたく、断片的な記憶だった。何故そんな状況になったのかも思い出せない。おまけに酷く曖昧な『ソレ』は、遠い過去のような感覚がした。
「原田さん。もしかして、声が聞こえます?」
不意に、若い女の声音がした。日本語だ。
声の方向に首を動かそうとして、それがスムーズにいかないコトに気づいた僕は顔をしかめていた。
自分の体に、クロワッサンみたく何層も包帯を巻かれていることが判明したからだ。やっとの思いで顔を傾けると、困惑顔の白衣のナースが僕を覗き込んでいた。東アジア系の女性だ。三十代くらい。目は細いが、美人だった。
「僕……」
『ハラダという名前では無い』
そう答えようとした。
しかし、全てを話し終える前にナースは慌てて何処かへと駆け出した。開かれた仕切りのカーテンの先を見れば、ここが相部屋であることが見て取れた。しかし、他に患者はいなかった。
『世界は決して僕を待ってくれない』
不意に、そんな言葉が浮かんだ。
五分経過。先ほどのナースが同じく東アジア系の中年の医者を伴ってやってきた。
深いシワが眉間に刻まれた、物理学者かのような偉そうな男だった。
「アナタのお名前は?」
反して、声音は優しかった。それに、名前を訂正するチャンスが訪れたと思った。
「スノダ、です」
何故かナースは途端に怪訝な表情を浮かべていた。医者は表情を変えなかった。
「下の名は?」
「ケイ」
「年齢は?」
「十……二歳、くらい」
「十二歳?」
「はい」
ナースが口元を押さえるのが見えた。笑っているのでは無く、驚いた表情だった。
「……君は何人かね?」
「チェコ国籍の、アジア系チェコ人」
「ふむ」
医者が思案するように腕組みをした。僕は体を起こそうとする。
「ああ、君は今動けないよ。絶対安静だ」
「……え?」
そこで、やっと僕は自分が様々な機器に繋がっているのを思い出していた。
――ッピッピ。
人間の体は不思議なものだ。途端に心音センサーの音が耳につくようになった。大人しく重力に従って、ベッドに沈み込むことにした。
「君が回復したら、色々と検査をさせてもらうよ」
医者はそう告げると、ナースを置いてそのまま部屋から去って行った。
「僕、今どうなってるの?」
ナースに問うと、彼女は困ったように微笑んだ。
「意識が回復して良かったわ。ゆっくり休んで」
それは答えにはなっていなかった。だけど、不思議と安心した。だから僕は目を閉じることにしたのだ。
――ッピッピ。
やはり、それでもセンサーの音は耳についた。
それから二週間ほどが経過した。その頃には尿の管も外して、自由に病院内を歩き回れるようになっていた。
医者から言わせてみれば、僕は尻尾が再生する爬虫類みたく驚異的な回復スピードだったらしい。
食事のおかわりを要求するようになると、ナースは「アナタみたいに回復が早い人は初めてよ」と口にしていた。
それから僕は、様々なモノに目を向けるようにした。
窓の外の景色、カレンダー、他の患者。
棒を持って探検に出かける少年の気分で、薬品の匂いが立ち込めるダンジョンを探索した。
窓の外は都会だった。
窓から見える光景は、コンクリート一色。ひっきりなしに通行する、大小の車両列。それは間違いなく、中もしくは小くらいの都市の様相だった。
植え込み以外で緑色のモノは確認できない。空は澄んで見えるけど、酸素より、排気ガスの排出量のほうが上回りそうだ。
カレンダーは二〇四一年、三月までめくられていた。
僕が保持している曖昧な記憶では、一月半ばが最後の記憶だったので、約二ヶ月近く眠っていたことになる。
他の患者は僕意外に一人だけ。
病院服を着た五十代くらいの、無愛想な顔を貼り付けた東アジア系の中年男性だった。
彼は正午になると、必ず病院の公共ロビーに顔を出す。
日当たりの良さそうなテラス席で、湯気が立っているコーヒーを片手に、びっしりと文字の詰まった英字新聞を読んでいるのだ。
「今日は何か面白いニュースは無い?」
僕が尋ねれば、彼は決まって顔をしかめる。
いつもは無視されるが、今日は特に日当たりが良かったからか、
「面白いニュースなどあるわけがない」
珍しいことに返答が返ってきた。僕は目をぱちくりさせながら、
「どうして?」
「世界は何時も狂っている。ということは、いつだって狂ったニュースばかりだ」
「じゃあ、どうしてそんなものをずっと眺めているの?」
彼は皮肉っぽく笑った。ということは、どうやら明確な答えなどないらしい。
もしくは、彼も単なる『狂った世界の一部』なのだろう。
因みに、中年の読む新聞の見出しには【内なる怪物】と題されていた。
「さて、君について話そう」
やっとこの日が来たか、僕はうんざりした気分でそんなことを思っていた。何故なら、今まで医者やナースに『このこと』を尋ねてみても、途端に話題を避けていたからだ。
医者は僕の目をパンサーのように捉えながら、無意識的にか図版に挟んだ用紙をしきりに撫で回していた。
「君の覚えている範囲まででいい。自分のことについて、教えてくれる?」
僕は暫く沈黙した。
僕の記憶は曖昧だ。そのことに気づいたのは、目覚めて数週間経って、物心つくみたいに、頭がハッキリしてきてからだった。
「最後の記憶は雪山だった」
「そうだね」
同意されたのには驚いた。てっきり、自分の記憶違いだと思っていたからだ。
「場所はどこ?」
「クリーノベツ山……だったと思う」
答えると、医者の表情が曇った。
「それは何処?」
「国のこと? それならチェコだよ」
「チェコって、ヨーロッパの?」
「うん。ドイツとの国境沿いに近い山なんだ」
医者は眼鏡を取って、こめかみを揉んでいた。
「それはおかしい」
医者は眼鏡をかけなおしがらそう口にした。
「どうして?」
「記録では、君はトルコに在住していたことになっている」
「トルコ語は分かるけど、行った記憶は無いね」
「じゃあチェコでは何語を話していた?」
「英語だよ。僕の周りは英語で喋っていたからね。でも一応、チェコ語も喋れる」
医者は徐に電子パッドを取り出し、何かを書き込んだ。そして、僕にそれを手渡してくる。
「何て書いてある?」
それはチェコ語で書かれた、出鱈目な文章だった。
「『金髪がチェコ女は多いですか?』……何これ、文法間違っているよ?」
医者は困惑したように俯いていた。
その後も色々試されたが、どうやら僕は推定でも十二カ国語を喋れるらしい。
らしい、ってのもおかしな話か。
でも、しょうがないだろう。僕の記憶は、酷く曖昧なのだ。
例えるなら、チーズフォンデュに浸したソーセージ。
口に含んだ物体がミルクなのか、チーズなのか、ソーセージなのか良く分からなくなる野蛮な感覚。
ね? 酷く曖昧だ。
更に数週間が過ぎた。
そうして僕は初めて、部屋に備え付けられている鏡を見た。
この病院に来て一ヶ月近くになるというのに、一度も鏡を見ないなんて奇妙に思うことだろう。
だけど、その表現で間違いないと思う。何故なら、見るという行為はその対象、存在を認識するというコトだからだ。
自分自身、同一空間に存在することすら知らなかった存在を脳みそが人知れず稼働、認識。それが為されて初めて何かを見るということは達成されたことになる。
もしかしたら有名な哲学者はこれらについて幾つかの論文を書いているのかもしれないけど、僕はそれを見ていない、つまり認識していないワケで……。
まあ、ともかく。僕はそれを実行した。
するとびっくり。
どう見ても――鏡前に映る自分の姿は十八くらいの青年……いや、十六と言っても驚かないくらいの容姿だった。
しかも、それはあの時の、雪山で僕に銃口を向けていた青年そのものだった。
大きくぱっちりとした瞳。不均一なようで均整のとれた長さの髪。まるで、アジアのポップスターみたく整った顔立ちだ。
僕はそれを見て、一体全体、何が何だか理解出来なかった。
「君は飛行機事故に巻き込まれたんだよ」
背後から声がした。それは、存在を確認するまでもなく、声音からして医者だった。
「飛行機……事故?」
「ああ、痛ましい事故だった。乗員乗客は君ともう一人を除いて、全員死亡した」
「……飛行機事故」
「ああ。その幸運な生存者が君だよ。もう一人は別の病院に運ばれ、君はここへとやってきた」
「ここは何処なの? トルコ……ではないのは分かるけど」
「日本だ」
「日本?」
「ああ」
「何で、それを今になって僕に話したの?」
問えば、医者は僕の隣に並んで、一緒に鏡を眺め始めた。
「何度も話した。鏡も見せた。だけど、君はそのたびに頭を抑えてそのまま意識を失ってしまったんだ」
それを聞いた途端。いや、もっと前からだろうか?
自分が認識していたハズの自己の存在。『スノダ・ケイ』という十二歳の少年の顔も、唐突にぼかしがかかったように思い出せないでいた。
「僕は……」
一体、どうすればいいかな?
医者は答えを知っているのか、肩に手を置いてきた。
「君のペースでゆっくり思い出していこう」
それに、酷く不安を覚える自分がいた。チェコの山で暮らした曖昧な記憶。そこで自分が誰だったかも、目の前の青年が何をしていたのかも思い出せない。
「思い出したら、何か変わるかな?」
「変わるさ」
「どうして?」
「少なくとも、今の君は鏡を見る度に倒れていた以前の君では無いよ」
その答えはあまり気に入らなかった。単なるつまらない事実だった気がしたからだ。