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エピローグ

 ピッ、ピッ。  無機質で、やけに耳につく心音センサの音。  自分がなぜこれほど苛立っているのか、理由は分かっていた。僕は飽きるほど聞いてきたこの音が、心の底から嫌いなのだ。  頭は鉛のように重く、意識の端には粘つくような眠気がこびりついている。鼻腔を突く不快な消毒液の匂い。視界を塗り潰す平坦な白い天井。最悪な目覚めだ。僕は自由を奪われた赤ん坊のように、シーツの上に転がされていた。  窓の外は、眩いほどに明るい。太陽はすでに天頂を過ぎ、高層ビルが立ち並ぶ未来都市の無機質な肌を容赦なく照りつけていた。  上半身だけをゆっくりと起こし、周囲を窺う。  そこには、椅子に座ったままベッドに突っ伏し、姉妹のように身を寄せ合って寝息を立てる二人の少女の姿があった。  一人は、僕の手を握ろうとしていたのだろうか。指先がわずかに僕の布団に触れている。  僕は思わず笑みをこぼし、彼女たちを起こさないよう慎重にベッドを抜け出した。剥がれ落ちそうだったシーツを二人の肩にかけ直し、そっと振り返る。  正面のベッドには、見覚えのある坊主頭の男が座っていた。 「よお、目が覚めたか」 「うん……。レッカーこそ、体は大丈夫なの?」 「おかげさまでな。後遺症のひとつも残っちゃいない。問題は、ここの飯が死ぬほど不味いことくらいだ」  イメージと変わらぬ減らず口に、自然と肩の力が抜ける。 「それにしても、僕ら相部屋なんだね」  僕が場を和ませようと話題を変えると、レッカーは忌々しそうに、深いため息を吐き出した。 「メイソンの嫌がらせだ」 「え?」  ふと彼の隣にある棚を見れば、そこには見るも華やかな花束とフルーツが、不自然なほど完璧な構図で飾られていた。 「もしかして、それもメイソンから?」  僕が尋ねると、彼は少しだけ視線を泳がせた。 「いやコレは……まあいい。少し、外で話そうぜ」  レッカーはベッドから滑り降りると、壁に立てかけてあった松葉杖を引き寄せた。 「眠り姫が二人もいることだしな」  そう口にして、カツン、カツンとリズム良く歩き出す。  僕は二人の眠り姫を起こさぬよう、その柔らかな額にキスを贈りたい衝動をぐっと堪え、その背中を追った。 △   やって来たのは中庭のテラス席。売店で買ったばかりのコーヒーを手に僕がきょろきょろとしていると、レッカーが訝しげに眉をひそめた。 「誰か探しているのか?」 「いや……別に」 「そうか」  席に着いて、しばしの沈黙。レッカーは気まずそうに、無骨な指で頬をぽりぽりと掻いた。 「お前が目を覚ます少し前だ。雅静ヤージンが見舞いに来た」  僕は思わず目を見開く。 「雅静ヤージンが? どうして?」 「花束とフルーツを持ってきてな。俺にコトの顛末をざっと話すと、さっさと帰っていったよ。奴は悪人のくせに、律儀な奴なんだ」 「……そんな悪人、いるの?」  僕の率直な感想に、レッカーは喉を鳴らして笑った。 「奴は今回の騒動も、あくまで『トレント社への牽制だった』というスタンスを崩さないつもりだ。戒厳令騒ぎも、連中をあぶり出すための詭弁だった、なんてうそぶいてやがる」 「そんな風には、到底思えないよ……」 「まあな。戦争になろうが俺たちに阻止されようが、どちらに転んでも得をするように構えていたんだろう。あいつはそういう女だ」  雅静ヤージン。  味方であれば心強いが、一歩間違えればこれほど恐ろしい敵もいない。元トレントの少女カタリナを「まだ使える」と回収していった彼女が、次に何を仕掛けてくるのか、僕には見当もつかなかった。  僕が思考に沈んでいると、レッカーが話を継いだ。 「……ちなみに第五区画だが、俺は区画長を引退した。後は正式にメイソンが引き継いでいる」 「メイソンも、雅静ヤージンとグルだったのかな?」 「あの日の二人の口ぶりからして、そうだろうな。あの二人は目的が重なる部分も多い。だが、共闘はしても、敵同士という本質は変わらんのだろうな」 「そっか……ちなみにさ」 「うん?」 「レッカーは、これからどうするの?」  問いかけると、彼は低く呻くような相槌を打ってから言った。 「美月ミツキの奴が、しきりに俺の前で『人手が足りない』とかぼやいていてな」 「へえ……それで?」  レッカーはふっと口角を上げた。 「ちょうど、新しい就職先を探していたところだ」  その言葉の意味を理解し、僕は思わず顔をほころばせた。僕らに、心強い仲間が増える。 「嬉しいよ。偏った男女比率に不満を持っていたんだ」  僕が言うと、レッカーは照れくさそうに坊主頭を撫でた。 「そうかい」 「うん」  レッカーは、そのまま眩い蒼穹を仰ぎ見た。  春と呼ぶには強すぎる陽光。僕が「曖昧さ」に悩んでいる間にも、季節は容赦なく進んでいたらしい。 「ところでさ」 「ん?」 「一日だけアメリカ人に戻る、って言ってたよね。あれって、結局どういう意味だったの?」  レッカーは、はぐらかすように苦笑した。 「……俺にも分からん」 「分からないの?」 「分かっていたら、あの国を出ることもなかったんだろうな」  レッカーの口から出たその言葉は、ひどく静かで、鉛のように重かった。  何と返すべきか迷っている間に、ひゅうと生暖かい風が僕らの間を通り抜けていく。春の終わりを告げ、次の季節を無理やり連れてくるような風だった。 「飲まないのか?」  不意にレッカーが僕の手元を指した。そこには、湯気を失い、すっかり冷めたコーヒーがあった。 「コーヒーは嫌いなんだ」  僕の答えに、レッカーは釈然としない表情を浮かべたが、 「……なら、もらおうか」  と、迷いのない手つきで僕のカップを取り上げ、一気に煽った。 「ちょっと、散歩してくるよ」  僕が立ち上がり、背を向けて歩き出したときだ。 「アキ」  呼び止められて振り返る。  レッカーは、メイソンのように器用に中指を立てたりはしなかった。ただ、空になったカップを高く掲げ、短く、祈るように言った。 「これから、よろしくな」  僕は一本指に欲張ってもう一本指を付け足し、レッカーに向ける。  流石メイソンの叔父さんだ。苦笑を送ってきた彼を背に、僕は悪くない気分で歩き出した。 △   新たに売店で買い直したコーヒーを手に、僕は一人、病院のラウンジへと足を向けた。    日当たりの良い窓際の席に、見覚えのある背中があった。英字新聞を広げ、黙々と活字を追う中年の男。    以前と決定的に違うのは、彼が纏っているのが無機質な病衣ではなく、身体に馴染んだ上質なスーツであることだった。 「やあ。コーヒーを持ってここに来れば、君に会える気がしたんだ」  僕が声をかけると、男は視線を新聞に落としたまま、皮肉げに口角を上げた。 「五十ウォンにも満たないアポに、割くべき時間は持ち合わせていない」  相変わらずの言い草に、僕は苦笑しながら向かいの席に腰を下ろした。    頬杖をつき、しばらくの間、無言で彼を見つめる。 「でも、こうしてまた会えた」  僕がそう告げると、男はようやく、儀式のような手つきで新聞を畳んだ。    それから、僕が差し出したコーヒーを当然の権利のように受け取り、ゆっくりとその香りを吸い込んだ。 「キミはさ……僕の中でまだ生き残っている人格なのかな?」  中年は新聞を撫でつけた。見出しは何故か空白だった。 【   】こんな具合に。 「そうかもしれない。だが、或いはそうじゃないかもしれない」 「どういうこと?」 「俺はお前に消された人格の一つだ。しかし、記憶は保有されている。それを元に、お前によって再構築された存在かもしれない。もしくは、お前が見ている単なる幻想なのかもしれない」 「どっちなのさ」 「さあな……。それを確かめる術は、お前自らが破壊してしまった。真相は闇の中。確かなことは、お前がこうして実態の無い存在に話しかける、哀れな精神病患者であるということだけだ」  僕は大げさなほど深く、ため息を吐き出した。 「ひどい言いぐさだ」 「不当だと思うなら、話しかけなければいい。テラスで新聞を読んでいる中年のことなど無視して、自分の生活を送れば済む話だ」  僕は答えず、窓の外を眺めた。    自動運転の車両が絶え間なく流れ、あの戒厳令下の大立ち回りなど、最初から無かったことのように世界は無関心に動き続けている。 「別にいいじゃない。世界は狂ってるんだから」  僕がぼそりと口にすると、中年は虚を突かれたように一瞬だけ動きを止め、それから愉快そうに喉を鳴らした。 「違いない。その上で、だ」 「うん?」 「その上で、お前はこれからどう生きるつもりだ?」  再び投げかけられた、本質を突く問い。  僕は答えの代わりに、中年の前で揺らめくコーヒーの湯気を指差した。 「コーヒーの湯気が……」 「あん?」 「バレリーナみたいに踊ってる」  突飛な僕の言葉に、中年はついに噴き出した。 「詩人にでもなるつもりか?」 「さてね。ただ、日記でも書こうかと思ってるんだ」  美月ミツキの屋敷に帰ったら、ペンを取ろう。  もっとも、あの屋敷は先の騒動でボロボロのままだ。やるべきことは山積みだし、シアタールームにはポップコーンが散乱し、三ツ目サードアイの部屋は相変わらずゴミ捨て場のようだろう。二人の洗濯物だって、山のように溜まっているはずだ。  けれど――それらの雑事をすべて片付け、ふっと一息ついたあと。  新しいコーヒーを淹れて、日当たりの良い庭園にでも腰を下ろしたなら。 「また、君に会えるのかな?」  問いかけた視線の先。中年の姿は、煙のように跡形もなく消え去っていた。