終わらせよう
全ての記憶統合の旅を終えて以来、数日。
僕はルイスを筆頭とする周囲の研究者たちから、異様な警戒を受けていた。
理由は明白だ。僕の心に生じた揺らぎ。感情の不安定化を厄介なバグとでも捉えたのだろう。
ある日、ルイスはひどく口ごもりながら、実験の全面的なやり直しを提示してきた。僕がその真意を問いただしても、「もう一度記憶の旅に挑戦してみようと」繰り返すのみ。
僕は本能で悟った。彼らは僕の意識――ウィリアム・トレントという僕を消し去り、再び、冷酷な新しい人格を造り出すつもりなのだ。
だから、僕は殺した。
研究所の人間を、一人残らずだ。
命乞いをされても、床にひれ伏し家族の名前を叫ばれても、僕は冷徹に動き続けた。
警報音がけたたましく鳴り響く中、武装警備員からライフルを奪い、無差別に乱射し、彼らの生命線である量子コンピューターとやらも完全に破壊してやった。
「お前を生み出してやったのは誰だ、言ってみろ!」
それがルイスの最期の言葉だった。
△
皮肉なことに、僕が仮想現実で体感し、そして統合した十三の人格の知識と経験のおかげで、その場からの脱出はあまりに安易だった。
トレント社から放たれた追手――僕と同じ実験の産物であったであろう若い社員たちが次々と現れたが、まるで足止めにもならない。
戦闘センス、戦闘IQ、戦術面において、僕は彼らを圧倒的に凌駕していた。その拍子抜けするほどの容易さに、ルイスが僕につけた評価、「最高傑作」とやらは、決して社交辞令ではなかったことを痛感させられた。
僕がいたのはモロッコの南東部にある秘密の研究所だ。僕はすぐにマーケット街へ赴き、裏社会の人間と接触。偽造パスポートを作成し、今後の計画を緻密に練り上げた。
次なる目的地として、比較的内政が安定し、経済的な発展を遂げている国の中から、僕は多数の人格の中でも特に印象深かったあの日本人の故郷を選んだ。
彼の記憶をたどってみれば、彼はシステム上のバグのせいか、初めからチェコで過ごし、僕に殺されるまでの生涯をそこで過ごしたという記憶しか持ち合わせていなかった。
だから彼の代わりに、日本という国を生で見てみようという、それだけの、何でもない動機だった。
そうと決まれば、僕は日本の情報組織と早急に連絡を取り、亡命へとこぎつける。
僕は攪乱のために複数のフライトチケットを予約し、しかし本命は海路を使い、数か月をかけて遠回りしながらトルコへと潜入した。
トルコからは空路での移動だ。モロッコで実行したように複数のフライトチケットを入手し、最低限の必需品が入ったボストンバッグを一つだけ担ぎ、格安便の指定された窓際の座席に乗り込んだ。
窓際の席を占領した僕は、肩肘をつきながら、これから初めて拝むことになるであろう、空の外の景色を、ほんの少しだけ楽しみに待っていた。
『皆様、まもなく離陸いたします。離陸時の安全のため、今一度シートベルトがしっかりと――』
英語のアナウンスが終了すると、機体が重々しく揺れ、ついに空の旅が始まった。
それから十分ほど経った頃、ふと、僕の視界の端に一筋の金髪がちらつくのを発見した。
視線を向けると、隣の席に座っていた東欧系の幼い少女が、必死に窓の外の景色を拝もうと、僕の座席の境界線を超えて身を乗り出していた。
「すみません……」
母親が恐縮した様子で謝り、少女を引き寄せようとする。しかし少女は小さな体ながら頑なで、母親が油断した隙に僕の座席スペースへと何度も侵入を試みた。
いい加減苛立ちが募り、少女の髪を掴んで恫喝することも考えた。だが、何の気まぐれだろうか?
僕は無言で立ち上がり、少女を抱き上げると、窓際の自分の席にそっと座らせてやった。
「あ、ありがとうございます」
感激したようにお礼を言ってくる母親。窓際を占領できた少女は宝石のような輝く瞳で僕を見上げ、
「おそらが見えるよ!」
と、聞いても無いのに報告をしてきた。
『皆様、まもなく当機は日本の上空に入ります。ただいま、当機は順調に飛行しており――』
再び流れるアナウンス。僕は複雑な感情を吐き出すようにため息をこぼし、深くシートに沈み込んで目を瞑った。
その瞬間だった。
「ウィリアァーム!」
ざわざわとする乗客の喧騒を突き破り、耳をつんざくような絶叫が聞こえた。パチリと目を見開き周囲を伺えば、通路を挟んだ席で、客室乗務員になだめられながらも狂気的な笑みを浮かべた名も知れぬ東南アジア系の少女が、僕に向けて大袈裟に手を振っていた。
「トレント社からのプレゼントだ、しっかり受け取れよ」
東南アジア系の少女は懐から鈍く光るスイッチのようなものを取り出すと、機内に乗客の悲鳴が連鎖的に響き渡る中、躊躇なくボタンを押した。
△
キィィンという、硝子の破片のような耳鳴りが支配する中、僕は朦朧と目覚めた。
途端、体全体を深海の冷気のような極度の寒さが襲い、耐え難い震えが脊椎を駆け上がる。
ぼやける視界の中、必死に焦点を結ぼうとすれば、濃密な白煙がもうもうと舞い上がり、その向こうには、鋭利に引き裂かれた飛行機の天井が露わになっていた。
僕は座席に縫い付けられたように動けない。肋骨が軋むような激痛が全身を貫き、身じろぎ一つするのも命懸けだった。
どうやら飛行機は雪深い荒野に墜落したらしい。頭上の裂け目からは、冷たく重い雪が、執拗な意思を持って降り注いでいる。
か細く、動物の呻きのような声が遠くで聞こえるが、助けを求めるにはあまりにも希薄で、絶望の色が濃い。
ふと、隣席へと視線をやった。
「そらが見える」と言っていた少女――その細い体は、座席を突き破って侵入した黒い鉄骨に貫かれていた。彼女はすでに息絶え、顔には即死を物語る静謐が張り付いている。
「ああ……」
その瞬間、堰を切ったように熱い涙が頬を伝い落ちた。こんな動揺は初めてだ。心を占領する強烈な空虚と罪悪感に、今にも自我が崩壊しそうになる。
「どうして……」
なぜ、僕だけが助かった?
もし僕がいなければ、この乗客たちは誰も死ななかった。手榴弾のピンを抜いた男は僕の追手だ。僕こそが、この地獄の引き金を引いたのだ。
隣の少女も――僕が、あの時、気まぐれに席を代わらなければ、彼女は生きていたかもしれない。
その冷酷な事実が、頭蓋骨に直接叩きつけられる。止めどなくあふれる温かい涙は、破裂した噴水のように尽きることなく続いた。
「ああ……ああ――」
△
意識の深淵から噴き上がる、膨大な情報の激流。
ナイフの重量感、肉を裂く瞬間の生々しい手応え、死線で研ぎ澄まされる感覚のすべてが、かつて僕が「持っていた」はずの既視感として、細胞の一つひとつに焼き付いていく。
脳を焼くような痛みが走ると同時に、視界が異様にクリアになった。耳鳴りは止み、代わりにカタリナの細い呼吸音、周囲の兵士たちが銃を構え直す衣擦れの音、そしてサーチライトに照らされた埃の舞う様までもが、スローモーションのように立ち上がってくる。
「ふう……」
僕は立ち上がっていた。先ほどあれほど僕を絶望させた重力から、いとも簡単に、呆気なく。
全身を蝕んでいた激痛は、依然としてそこにある。けれど、それはもはや僕を支配する枷ではなく、処理すべき「情報の一つ」に成り下がっていた。
カタリナが怪訝そうに眉をひそめる。彼女の目に、今の僕はどう映っているのだろうか。死に体のネズミが、最後の悪あがきで虚勢を張っているように見えているのだろうか。
「アドレナリンだ」
僕はその答えを呟いていた。カタリナは一瞬、何かに呑まれたように足を止める。
しかし、すぐにそれを『気のせいだ』と振り払うように、力強く踏み込んできた。
――それは、一瞬の出来事だった。
投擲では致命傷にならない。この場で誰よりもそれを理解しているのは、カタリナ自身だ。だからこそ、彼女は肉薄する必要があった。
目を眩まし、躍動し、変幻自在なステップを刻みながら。
だが、その鋭い「突き」の予備動作も、理に適った動きである以上、本質は他と変わらない。ただ、速いだけだ。
僕はそれを受け止めた。真正面から、逃げずに。酷使された筋肉が悲鳴を上げるのを、他人事のように聞きながら。
カタリナの表情が驚愕に揺らぐ。僕は口の端から鮮血を零しながら、ふっと微笑を浮かべていた。
「僕は多分……たくさん、人を殺してきたんだね」
「お前――ッ!」
動揺するカタリナの腹部へ、渾身の膝蹴りを叩き込む。彼女は初めて苦悶に顔を歪め、短い悲鳴をあげた。
追撃が重なり、彼女の手からナイフが零れ落ちる。さらに打撃、打撃、打撃。
防戦一方となり、たたらを踏んだカタリナの頸部を、僕は逃さずヘッドロックで捉えた。
「終わりにしよう」
そのまま、でんぐり返しの要領で自らの体重を乗せ、彼女の頭蓋を地面に叩きつける。
強烈な衝撃。一瞬で意識を刈り取られたカタリナは、白目を剥き、力なく地面に横たわった。
僕が彼女の落としたナイフを拾い上げ、メイソンへと向き直ると、彼は薄ら笑いを浮かべて問いかけてきた。
「何してる?」
「……何って?」
「とどめをさせよ」
僕が沈黙を貫いていると、メイソンは「はぁ」と深く、退屈そうに溜息を吐いた。
「まあ、及第点だ」
「……え?」
「少しは楽しめたぜ」
メイソンが腰を上げると、部下の一人が無言で拳銃を差し出した。彼はそれを受け取ると、迷いのない足取りで横たわるカタリナへと歩み寄る。
その行く手を阻むように僕が立ちはだかると、メイソンは不快げに眉を寄せた。
「何のつもりだ?」
「……もう、終わりだよ」
僕は背後のカタリナに視線を向ける。
仰向けに倒れ伏した彼女の顔を見て、とあることを確信していた。
彼女は僕の乗った飛行機を墜落させた張本人だ。
彼女は僕と同様、多くの命を奪った。あどけない瞳を浮かべ、僕が見ることの叶わなかった空を見上げていた、あの少女の命さえも。
だが、彼女は僕と同じように、あの絶望的な事故を生き延びた生存者でもある。
それをここで殺してしまっては――勿体ない。そう、ただ「勿体ない」と感じてしまった。
勝手な話だ。善悪の天秤にかければ、彼女の罪に対して僕の行動はあまりに不釣り合いだろう。
だけど、僕は得体の知れない不安感と共に、彼女の生存を、この地獄の続きを願っていた。
メイソンが何かを言い返そうとした、その時。
「その通り。もう終わりだ」
僕の言葉に同調する、凛とした女性の声が響いた。
周囲に微かなざわめきが広がる。メイソンの顔から余裕が消え、真顔へと変わった。
「何しに来た、雅静?」
メイソンが低く問いかける。
そこには、今回の絵図を描いた張本人である第三区画の長、雅静が立っていた。彼女はコートのポケットに手を突っ込み、余裕を感じさせる微笑を浮かべている。
「全ては見させてもらった。だが……トレント社の実力も、たかが知れている。所詮、神話は神話といったところか」
「俺は何しに来たのかと聞いたんだぜ?」
「なに、その娘をもらい受けに来ただけだ」
雅静が地面で伸びているカタリナを指さすと、メイソンの目が鋭く細められた。
「おい。それは本当にトレント社と結託したと見られてもおかしくない行動だぜ?」
「実証はされたはずだ」
「あん?」
「そこで満身創痍で突っ立っている美月の飼い犬のことさ。彼はトレント社と袂を分かち、イノセントに……いいや、主人である美月に忠を尽くした」
「この女も、そうさせると?」
「まさに」
雅静は不快感を隠さないメイソンの横を通り過ぎざま、事も無げに付け加えた。
「洗脳は得意でね。トレントのガキどもを寝返らせる実験にも使えるかもしれない」
メイソンはしばし沈黙したあと、ふっと嘲笑のような笑みを漏らした。
「一つ貸しだ」
「そういうことにしておいてやろう」
二人のやり取りを聞き届けられたのは、そこまでだった。
安堵からか、あるいは出血多量のためか、僕はその場に盛大に倒れ込む。
薄れゆく意識の淵で、最後に視界に入ったのは――ドローンの空中デリバリーによって二階から救出されたのか、僕の元へと必死に駆け寄ってくる美月と、三ツ目の姿だった。