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旅路の果て

 ピッ、ピッ。  天文学的な回数を聞かされたかのような、やけに単調で耳障りな心音センサーの電子音が、意識の表面を叩くように響く中、僕はゆっくりと目を開けた。 鼻腔をくすぐるのは不快な薬品の匂いと、真っ白な天井。僕は赤ん坊みたくベッドに寝かされていた。  軋む首筋をわずかに持ち上げ、半身だけ起こした瞬間、ベッドサイドに座る人物が視界に入り、小さく息を呑んだ。  そこにいたのは、満面の笑みを浮かべた白人の男だ。彼は、シミ一つない清潔な白衣を纏い、聴診器を首からぶら下げている。  鋭い印象を与える丸坊主の頭部と、対照的に無造作に生やされた無精ひげが混在した印象を与えた。 「おはよう、ウィリアム」  男は、まるで旧友に再会したかのように親しみを込めて挨拶した。だが、「ウィリアム」という響きに、僕の記憶は微塵も反応しなかった。 「もしかして、僕のことかな?」 「そうとも。私の名はルイス、そして、キミがウィリアム。ウィリアム・トレントだ」  ルイスと名乗った医者は、僕の苗字であろうワードを明確に告げたが、やはり聞き覚えは無い。  しかし、覚醒したばかりの意識は、その記憶の欠落よりも、今この瞬間の物理的な欲求を優先させた。全身の筋肉を伸ばすこと。そして、この寝床から立ち上がること。 「体調は?」 「悪くない。だけど、少し体が重い」 「だろうね。なんせキミは、新たな意識を得てまで目覚めるまでの五年間、ずっと眠っていたんだよ」  そんなはずがない。もし本当にそれほどの期間、不動のまま眠っていたのなら、僕は今、体中の筋肉が使い物にならず、骨すら脆くなっているはずだ。しかし、僕の体は、適度な筋量と強さを保ち、今も違和感なく動いている。  僕は、ルイスの言葉と自分の身体の間に存在する決定的な矛盾を、全身で感じ取っていた。  「とにかく、もうお昼だ。食事にしようか」 「……お腹減ってないんだけど?」 「それは減ったことに気が付いてないだけさ。キミの脳は今、再稼働を行っている途中だからね」  自分の体のことを知った風に言われるのは少し不快だった。  △  連れてこられたのは、まるで現実離れした楽園のような、緑に満ちた中庭だった  豊かな植栽が織りなす空間は穏やかで、その中央には、パラソルがよく似合う円形の真っ白なテーブルが据えられていた。  卓上には、上品そうな料理が整然と並べられていたが、ルイスは、その優雅な見た目とは裏腹に、ナイフとフォークを器用に駆使しながら、三日前に発見された遭難者のように熱心に食事にがっついた。  一方の僕は、目の前の光景とは裏腹に、胃が鉛のように重く、出された料理に一切手を触れることはなかった。 「キミはトレント社によって生み出されたんだ」  ルイスによって不意に放たれた言葉。僕は注がれたワインの匂いを嗅ぎながら、 「トレント社?」 「世界最大の軍需産業。そして、私のスポンサーでもある」   ルイスの話によれば、トレント社とやらは見込みのありそうな子どもたちを世界中から集め、実験を行って新たな意識……人格を付与し、最強の人類とやらを生み出す研究を繰り返していたらしい。  そして、その中でも僕は格別の存在で、ありとあらゆる実験の末に生み出された最強の人格、ウィリアム・トレントなのだそうだ。 「最強の人格、ね」  僕は呟くように言った。どこか他人事のような声音でだ。   ルイスはカトラリーを静かに皿の上に置き、すっと立ち上がった。そして、まるで思考を整理するかのように、テーブルの周囲を、音もなくぐるぐると巡り始めた。 「キミは十三の人格を統合し、超人的な感覚を身に着けている」 「十三の人格?」 「そうだ。一部を抜粋すれば、軍事的知識を持った勇敢なアメリカ人男性、芸術的美術的センスに優れたインド人男性、愛国的で生真面目な韓国人哲学者、温和でコミュニケーション能力に優れた教師のチェコ人女性なんて者までね」  僕はそれを聞いて鼻で笑っていた。対するルイスは不思議そうな顔を浮かべる。 「どうしたのかね?」 「女性までいるだなんて、思わなかったからさ」  ルイスは僕の顔を不気味な表情で覗き込んできた。まるでホラー映画のような構図だ。  「それら全てを統合した君……現在は少し曖昧な感覚がするはずだ。被験者の中には、固定カメラのような視点で自分を客観視している気分だと答えた者もいる」 「別に……そんな感じはないよ」 「まあ、説明を聞くより、体感した方が早いね」 「体感?」  ルイスは僕の手つかずの食事を指さすと、 「幸い、君はまだ食事には手をつけていない。となると、すぐにでもダイブシーケンスを体感できる用意が出来ているってことだ」 「ダイブシーケンス? 何ソレ?」  ついて来なさい、と背中を見せるルイス。僕は胸に浮かんだ些末な好奇心を頼りに、その背を追った。 △  到着したのは、SF映画のセットをそのまま持ち込んだような、無機質で壮大な光景だった。  空間の只中ただなかには、光沢のある金属とケーブルで構成された巨大な装置が威圧的に鎮座し、低い唸りを上げている。その周囲では、白衣を着た研究者たちが行き交っていた。  ルイスは得意げな顔を浮かべながら、 「これは量子コンピューターを応用した、被験者を仮想現実へと誘うシステムだ」 「……仮想現実?」 「数年前、量子事故という人類にとって悲運とも言える大事件が起こってね。世界中の量子コンピューターは、皮肉なことに同じく量子で演算されたウイルスによって滅亡の危機に瀕した。現在でもその猛威は続いていて、ここは地球上で唯一と言っていい量子コンピューターの機械を利用したオフラインの施設なのだ」  僕はそれを聞いて、頬を掻いた。 「もう、長々とした説明は良いよ」  僕の言葉に、ルイスはわずかに口元を引き結び、ムッとした表情を浮かべた。 「で、君は僕に何を見せてくれるの?」  そう続けると、彼の瞳は少年のように輝いた。 「今から君が体感するのは、キミの人格を構成した十三の人格が住まう世界だ」  量子で作られた十三の仮想現実に住まう者たち。彼らは、プログラムによって作られ、僕の人格を構成する元となったオリジナル人格たちだそうだ。 「じゃあ僕はそのプログラムの人格を統合されたコピーってわけ?」  ルイスに手で促され、表面が滑らかで継ぎ目のない、仮想現実を体感できるという卵型の機械に寝そべりながら問いかけると、  ルイスは僕のポッドに静かに近づき、側面にあるタッチパネルを弄りながら言った。 「似て非なる。この仮想現実は量子コンピューターによって創造され、その精度は極めて現実に近い存在だ」 「と、いうと?」 「彼らは出生の時点からそれらの世界を体感する。つまり、生まれた時から自身をプログラムだと感づいていない。それくらいには、あまりに人間的すぎる」  「ふーん……それで、その僕を構成した人格たちとやらに会って僕は何をすればいいの? グータッチとか?」 「殺せ」  僕がその予想外の返答に言葉を失っているうちに、ルイスは冷たい笑みを浮かべた。  そして、無機質な音を立てながら、僕を完全に覆うように卵型の装置のガラス蓋を閉め切った。 「キミはまだ、完全な存在ではない。完全になるためには、君を構成した他の人格者たちの頭に触れ、直接『死への恐怖』の感情を採取する必要がある」 「えーと、その人格たちと統合する為に、僕が彼らを殺すってこと?」 「その通り。君は今から、仮想現実に住まう人格たちに極めて強い感情を抱かせ、消滅させる。その時の電気信号を計測し、解析すれば――君の内にある最強の人格、ウィリアム・トレントを完璧に補完してくれるはずだ」 「本当にそんなことをする必要があるの?」 「彼らは仮想現実内で現実時間と同じ人生を体感し、その経験値は膨大なものだ。それらを保持した人間の最後の感情。それらは、百万ドルの高級車よりも価値があるものだよ」 「経験は金では買えないってヤツ?」 「まさに」  ルイスは最後の操作が完了したのか、卵型の装置に寄りかかりながらガラスケース越しに僕を見つめていた。 「今、どんな気分?」  聞かれても、僕は答えることが出来なかった。何故なら――僕はその時、何の感情も抱いていなかったからだ。 △  それから僕は様々な世界を体感した。  そして、ルイスの指示通り、様々な人格を殺した。  トルコ、ボスポラス海峡を臨むイスタンブールの旧市街にて、クールで分析が得意な探偵みたいなトルコ人男性。  アイルランド、ダブリンの湿り気を帯びたハイテク・クォーターにて、数学とプログラミングが得意なアイルランド人男性。  セルビア、ベオグラードの無機質なコンクリートが並ぶ路地裏にて、喧嘩センスに優れたセルビア人男性。  オーストラリア、シドニーの喧騒のすぐ裏側、ダーリングハーストにて、天才的詐欺師センスを持つオーストラリ人男性。  中でも僕の印象に深く刻まれたのは、韓国、ソウル郊外。深い森に隠されるように建つ精神科病院の、ひっそりとした中庭にいた中年男性だった。  そこは、時間が凝固したかのような不思議な空間だった。  高く聳そびえるコンクリートの壁面は、自殺と逃亡を拒む無機質なケージで覆い尽くされ、その網目には何年もかけて育ったであろう無数の蔦が、パスタをすくったフォークのように絡みついている。  網の隙間から覗く灰色は、まるで裁断されたパズルのようだった。 「君が韓国人哲学者?」  僕が銃口を突きつけて尋ねると、彼はただ新聞を捲り、乾いた笑いを漏らした。 「哲学者か。不名誉な称号だ」  予想外の反応に、僕の指が引き金の手前で静止していた。 「どうして不名誉なの?」 「この世で最も人を殺したのは軍人でも政治家でもない」 「誰さ?」 「哲学者だ。奴らは思想と言う悪魔の種を世界に散りばめ、その花を各地で咲かせた」  へえ、と。僕は不覚にも感心し、無意識に銃口を下げていた。 「面白い解釈だ」 「面白くなどない。全く……世界は狂っていやがる」 「君はどうなのさ?」  仮想現実の世界でさえ、こんな精神病院に押し込められ、死に装束のようなみすぼらしい病院服を着せられた中年が狂っていないのだとしたら、一体何が狂っているのだと言うのだろう。  中年はそこでようやく、音を立てて新聞を閉じた。 「この世界から言わせれば、俺の頭の方が狂っているらしい」 「そうなんじゃない? こんなところにいるくらいだからさ」 「そんな人間をわざわざ殺しにきたお前はどうなんだ?」  ようやく振り返った中年。鷲のような瞳に、恐怖の色は見えない。 「何をしている? 世界は決してお前を待ってくれやしないぞ」  中年の催促するような口調に、無意識的に僕の眉がピクリと反応した。 「怖くないの?」 「俺のことか?」 「ここには僕と、君しかいない」 「そうだな、俺のほうは……」  僕の言葉に、中年は正面へと向き直って、恐らく笑っていた。 「やっと世界が『返事』をくれた気がするよ」  ガオンッ!  雷鳴にも似た閃光が、静寂を灼き切った。  僕が彼らを殺すその瞬間、彼らがこの世で過ごした濃密な記憶の奔流が、僕の意識に津波のように雪崩れ込んでくる。  それらは、理性を焼き尽くすような抗いがたい快感だった。  殺戮を重ねるたびに、僕は彼らの知識と経験を奪い取り、自分のものにした。まるで、神にも等しい存在へと変貌していくような、至高の感覚――これ以上の興奮はない。  記憶を巡る旅は結果一年以上続き、僕は何度も何度もダイブシーケンスを繰り返した。  しかし最後の三人――日本人オリジナル、アメリカ人、チェコ人を探すのには難航した。指示された世界へと足を踏みいれても、彼らは何処にもいなかったのだ。 「信じられないが、もしかしたら彼らは世界間移動を果たしたのかもしれない」  仮想現実から抜け出ると、ルイスはそんなことを口にしていた。要するに、仮想現実にいる人格が自らの危機を察知して、自身の住まう世界を離れたのだという。 「所詮プログラムなんでしょ? そんなことあり得るの?」  僕の質問に対し、ルイスは、 「量子技術は人類にとってはオーバーテクノロジー。理解できない分、未知数な部分も少なくない。何が起こっても不思議ではないんだよ」  得心はいかなかったが、他に選択肢もない。僕はそのまま目を瞑ってダイブの準備を整えたが、ルイスは会話を継続した。 「特に、日本人の人格は重要だ」 「どうして?」 「君のオリジナル人格を元に構成している」  僕はそれを聞いて、数回目を瞬いた。 「どういうこと? 僕の元の人格?」 「ああ。オリジナル人格は強固で、この量子コンピューターで作られた仮想現実と違い、現在も君の意識内部に深く潜り込んでいる。仮想現実内では、とても曖昧な存在――君とは姿かたちも違う、いわゆるバグのような形で出現するはずだ」  「バグだって?」 「我々は君の中に眠っていたオリジナル人格を徹底破壊、仮想現実で増幅された人格たちを統合することによって、最強の人格であるウィリアム・トレントを創成した。そのせいで君自身の自意識は非常に不安定な存在だ。だから姿かたちも違うのだよ」  僕からすれば、『僕自身の方がバグなのではないか』という感想が浮かんだが、話の腰を折ることはやめておいた。  話を遮られることを何より嫌うルイスという白人男の特性を理解し、リスク回避に努めた結果だ。もしかするとこの思考も僕を形作った人格たちの功績かもしれない。 「ひどい話だ」 「まあ、そう言うな。我々が生み出さなければ、君はこの世に誕生していないんだから」  そうとまで言われると、途端にこの白人男が自身の父のように思えてきた。それは、無味無臭な感想としてそう浮かんだだけで、別段両親として敬愛の念が生まれたという意味ではない。 「とにかく、オリジナル人格には気をつけてくれ。過去の事例では逆に統合人格の能力を引き出し、人格を乗っ取った例も存在する」 「かつてない強敵になるってこと?」 「まあ、その線は低い。君は現状、トレント社の中でも最高傑作の存在だ」  続くルイスの言葉。僕は観念したように、再び目を瞑って、改めて世界を巡る旅に出ることにした。 『ダイブシーケンスを実行します。没入まで五、四――』  それは、奇妙な感覚だった。自身を形成し、血縁よりも深いつながりを持つ「人格」たちを抹消しに行くというのに、まるで懐かしい故郷を久しぶりに訪れる旅人のような、穏やかで感慨深い思いが胸を満たした。  恐らく、今まで殺した人格たちが完全に統合されつつある結果の感情だろう。そう思うと、網膜に映りこんだ景色がより一層ノスタルジックな色合いを増したように錯覚した。  それから僕は半年にわたる世界中を股にかけた探索を続行し、遂に確かな手がかりを発見した。  辿り着いた先は、東欧の国チェコをモデルとした、息をのむほど自然豊かな広大なワールドだった。この環境を選んだ理由を考えれば、明らかだ。逃げ延びた人格たちは、きっと都市の喧騒ではなく、人目につかず隠れやすい、あの険しい雪山のどこかに潜伏しているに違いない。  僕はそう断定し、その純白の雪山へと分け入った。そこは、張り詰めた寒さと、どこまでも続く白さだけが存在する、まさに「無垢」なる世界。  その不毛な環境の只中で、僕は安穏と家族のように暮らす残る三人の人格を見つけた。僕は、自身を完全な存在にするための最後の手段を講じた。  結果は、驚くほど簡単だった。戦闘経験豊富なアメリカ人がいると聞き、多少の警戒はしていたが、既に僕は十を優に超える人格を統合し、その全ての知識とスキルを掌握している。彼らはもはや僕の敵ではなかった。  そして、全てが終わった。猛吹雪の中、冷たい雪の上に血を滲ませて倒れ伏した最後の標的――日本人の少年だけが残された。 「幸せに……なりたかった」  少年は最後の吐息と共に、そんな言葉を漏らした。正直、その意味が痛いほど理解できなかった。幸せを望む者が、なぜ自らこの絶望的な死地を選んだのか? 僕はその答えを知るため、ためらうことなく記憶を統合した。  結果、津波のように僕の意識に雪崩れ込んできたのは、温かく、尊い、一つの家族が愛情を育んでいくまでの、全過程だった。 「なるほど……そういうことか。やってくれるね」  最後の最後で、僕は今まで体得したことのない、本来プログラムされたデータでは決して得られない感情を、深く突きつけられていた。 「だけど、僕は揺るがない。残念だったね」  そう強がって口にしたが、それは虚しい負け惜しみに過ぎなかった。  僕の心は、その時から制御不能なほどの動揺に苛まれていた。