幸せに
キーン……という、ありふれた耳鳴りを感知した時。
僕の視界に映ったのは、絶望的な光景だった。
廃墟と化した美月邸の廊下。僕とレッカーはいつの間にか一階の床に、瓦礫とともに叩きつけられていた。おそらく敵は、一階の天井に爆弾を仕掛けていたのだろう。
そうして二階の廊下にいた僕とレッカーを、一階へと引きずり下ろしたのだ。
咳き込むのも束の間、立ち上がろうと試みたが、脳震盪の影響で身体が思うように動かない。瓦礫の上で沈黙するレッカーに声をかけようとするが、彼はピクリとも動かなかった。
『明人! 返事をしろ!』
『アキ、無事なの!』
無線からは、僕を呼びかける美月と三ツ目の切迫した声が聞こえる。
自分でも制御できない呻きが漏れる中、コツン、コツンと硬質な足音を鳴らしてこちらへ近づいてくる影に気がついた。
真っ黒な戦闘服に、無機質な黒い仮面。
それは紛れもない、カタリナだった。
彼女の背後には数人の兵士たちが付き従い、周囲を警戒していた。
万が一にも、僕とレッカーの状況が好転しそうにはなかった。
カタリナは装着していた鉄仮面を外すと、それを無造作に床へと放り出した。カランと乾いた音が響き、彼女はそのまま膝をつき、自身の顔を近づけてくる。
「殺しにきた」
底冷えするような冷徹な声音だった。みっともなく、ぶるぶると身体が震え始める。それをカタリナは心底不快そうに見つめていた。
「怖いのか?」
返事もできなかった。アドレナリンの魔法は解け、僕は非力なティーンエイジャーに逆戻りしていた。
カタリナはしばらく僕を見つめたあと、静かに口を開いた。
「お互い、死にぞこなった身だ。それが、こんな極東の島国の一角で殺し合っている。多少なりとも、因果は感じるものだな」
カタリナの言葉を、僕は理解できなかった。お互い、死にぞこなった。しかし、その言葉が該当するのは、今のこの状況にいる僕の方だろうと思ったのだ。
僕が困惑を深める中、カタリナは満足げに立ち上がると、彼女の専売特許であるナイフを引き抜いた。
「お前は後だ」
カタリナは僕に背を向けると、ナイフの刃を冷たく光らせながら、倒れ伏したレッカーへと歩み寄っていく。
「やめろ」
恐怖に支配され、出し方すら忘れていたはずの乾いた唇から、ようやく零れ落ちた言葉だった。だが、カタリナの歩みが止まることはなかった。
「やめろ!」
今度は叫ぶように声を絞り出した。
カタリナはようやくそこで足を止め、緩慢な動きでこちらへと振り返った。
「お前は――」
カタリナが言葉を紡ごうとした、その瞬間だった。
ピクリとも動かなかったレッカーがガバッと身を起こし、剥き身のナイフを手にカタリナへと飛びかかった。
しかし、カタリナはその不意打ちをものともしなかった。ナイフをナイフで弾き返し、お手本のような投げ技でレッカーを床に転がす。
その時、レッカーの足元からスライドするように一挺の拳銃が転がってきた。僕が貸していた愛銃だ。レッカーは最初から、これを拾わせる隙を狙っていたのだろう。
僕は最後の力を振り絞り、その拳銃へ手を伸ばそうとした。だが――。
不意に、自分の腕に突き刺さったナイフを、僕はしばらく呆然と眺めていた。カタリナはすべての状況に即座に反応し、拳銃を拾おうとした僕の腕へ正確にナイフを放ったのだ。
首を絞められ、失神寸前のレッカー。必死に体を動かそうとするが、もはや指先ひとつ叶わない。
「もう終わりか?」
カタリナが勝利を確信したような言葉を吐く。
その直後、パスッ、パスッ、と間の抜けた音が響いた。カタリナの周囲にいた兵士たちが、糸の切れた人形のように次々と床へ倒れ伏す。
カタリナは零コンマ数秒ほど呆然としたものの、即座にレッカーを抱えたまま姿勢を低くした。
生き残った他の兵士たちも同様だったが、不可視の銃撃は止まず、あっという間にカタリナ以外の全員が物言わぬ床の飾りと化した。
そのタイミングで、闇に包まれていた美月邸周辺が唐突に明転した。庭園側から、サーチライトの強烈な光がこちらを白々と照らし出している。
『ああ、ああ――チェック、チェック。ワン、トゥー、スリー』
場違いなほど間の抜けたマイクテスト。しかし、大いに聞き覚えのあるその声音に、僕は思わず笑みを浮かべていた。
『中央区画長の趣味の悪い屋敷に潜伏するトレントの社員に告ぐ。こちらはレッカー区画長直轄、第五区画特殊作戦部隊「ヴァンガード」だ。トレント社員は抵抗をやめ、速やかに投降しろ』
それを聞いたカタリナは今にも意識を刈り取られそうだったレッカーを解放し、ライフルを手に物陰に身を隠し、そして、怒りに打ち震えていた。
レッカーの咳き込む音が崩壊した廊下で響く中、
「ヴァンガードだと……おい、メイソン!」
カタリナが喉の張り裂けそうな声で叫ぶと、メイソンはスピーカー越しに楽しげな笑い声を返した。
『なんだ仮面女、お前喋れたのかい? てっきりジェイソンみたく口が聞けないもんだと思ったが』
「ふざけるな! 雅静との協定で、我々の作戦には関与しないはずだろう!」
『へっ、約束を違えたのはお前らのほうだろ?』
「なんだと、何の話だ!」
『俺の親愛なる叔父さんであり、現職の第五区画長に手を出しちまったんだ。覚悟はできているんだろうな、ああ?』
床に伏したレッカーが「よく言うぜ……」と力なく呟きを漏らす。カタリナも唇を震わせながら言い返した。
「お前がレッカーを放逐したことは知っている! 出鱈目を抜かすな!」
すると、メイソンは途端に声のトーンを不気味に落とした。
『いやぁ、おかしいね。ちゃんちゃらおかしいぜ』
「何を言っている! おかしいのはお前の頭だ!」
『潜り込んだネズミのくせして、フェアプレーの精神を持ちなさいってか? お前らがルールを語るのは百万年早いんだよ』
メイソンのその言葉と同時に、崩壊した二階から音もなく複数の影が舞い降りた。暗視ゴーグルをつけ、重装備に身を固めた特殊部隊の集団だ。
彼らの肩には、ひとつのシンボルが刻まれたワッペンが縫い付けられていた。
第五区画を、あるいは『ヴァンガード』の名を象徴しているのか。それとも、かつて遊園地でメイソンが不敵に浮かべていたVサインの伏線回収なのか。
鋭利にデザインされた『V』の文字が、暗闇の中で鈍く主張していた。
カタリナは咄嗟に反応したが、機敏な集団にあっという間に取り押さえられる。カランとナイフが転がる音が響き、彼女の両手首には無情な手錠がはめられた。
「よっと」
瓦礫の隙間から、拡声器を手にしたメイソンが颯爽と姿を現した。
「ひでぇザマだね、ご両名」
せせら笑うように僕らを見下ろすメイソン。
「助かったよ……」
僕がようやくそれだけを口にすると、メイソンは耳の穴をほじくりながら、心底とぼけた表情を見せた。
「うーん、それはお前次第じゃねえか?」
「……は?」
「立てよ」
メイソンは突き放すようにそう告げて背を向けると、肩越しに不敵な言葉を投げかけてきた。
「まだ俺は、これっぽっちも楽しませてもらってねえぜ」
△
サーチライトの明かりで煌々と、白一色に照らし出された美月邸の庭園。
かつての美しさは見る影もなく、残されたのは戦場の黒煙を上げる跡地と、僕とカタリナを囲むように銃を掲げて沈黙するメイソンの手勢たちだった。
僕は応急処置に似た必要最低限といった言葉が似あう乱雑な治療を受け、ふらふらの足取りでようやく自立すると、サーチライトを背にし、キャンプ椅子に腰かけて王のように部下を従えるメイソンを睨みつけた。
「それで……どうしろって言うんだ?」
メイソンは大仰に両手を広げてみせる。
「あぁん? ここまでお膳立てしてやって、まだ分からねえのかよ」
「……分からないね」
メイソンは呆れたように片肘をつきながら、吐き捨てるように言った。
「手前ぇらは結局、ネズミだ。薄汚ねえ、トレントに飼われたドブを這いまわるネズっころなんだよ」
「……それで?」
「アキ、あんまりガッカリさせるなよ。男なら分かるだろ、な? てめぇのケツはてめぇで拭けってことだ」
要するに、今から元同族同士である僕とカタリナで殺し合えということだろう。
周囲を見渡したが、隙間なく取り囲む第五区画の兵士たち。しかも、僕がまるで歯が立たなかったカタリナをあっさり押さえつけた精鋭たちだ。
逃げ場など、どこにもありそうになかった。
僕とは対照的に、カタリナは落ち着いた様子だった。手錠は先ほどメイソンの部下によって外され、冷え切った瞳でただ僕を見つめている。
「メイソン……お痛もほどほどにしろ」
特殊部隊員の一人に助け起こされたレッカーが釘を刺したが、メイソンの不敵な笑みは揺るがなかった。
「叔父さん、これはアンタへの言葉でもあるんだぜ。どれだけ俺が第五の尻拭いをしてやったと思ってる。美月と共謀する暇があったら、俺に相談の一つでも寄越してくれりゃよかったんだ。違うか?」
レッカーは軽くため息を吐くと、僕に近寄ってきた。
「甥がすまないな」
「……なんとかならない? この状態で僕がカタリナとやりあっても、敵いっこないよ」
「すまんが無理だ。メイソンは人の言うことを聞かない。諦めて戦え」
僕が黙って震える拳を見つめていると、レッカーが「なあ」と声をかけてきた。
「怪物を出す気はないのか?」
僕の中に眠る怪物を、か。
「引き出しのヘソクリじゃないんだ。そう簡単に奴は出てこないよ」
レッカーは僕の肩に手を置くと、力強く言った。
「だったら、お前が戦え」
「無理だよ」
「無理じゃない。お前には体に染みついた技術がある。それに、ここまで来たのはお前自身の勇気だ」
レッカーは僕のみぞおち辺りに拳を置くと、言葉を継いだ。
「奴はナイフ使いだ。ナイフの動きに精通している」
「……つまり?」
「対ナイフ戦に特化しているということだ。致命傷箇所に触れられそうになったら、反射的に守る挙動をとるはずだ」
「そこがチャンスってこと?」
カタリナに視線を向ければ、彼女はいつの間にか隠し持っていたナイフを引き抜き、サーチライトを反射させていた。
レッカーもそれに気づき、自身の持っていたナイフを手渡してくる。大ぶりのサバイバルナイフだ。リーチだけは勝っていることだろう。
「さあな。格上相手にはどうなるか見当もつかない」
頼りにならないセコンドだ。僕は呆れたように息を吐いた、その時だった。
「明人ー!」
おそらく屋敷の二階の窓からだろう。廊下が崩れ、なし崩し的に自室で軟禁状態となっているはずの美月が、大きな声でこちらに呼びかけてきた。
「勝てー!」
思わず苦笑が漏れる。てっきりメイソンを糾弾し、勝負を取りやめろと言ってくれるものだと思っていたのに。
「少しだけやる気が出てきたよ」
レッカーは僕の背中を、バンッと力強く叩いてきた。
「おい、そろそろ飽きてきたぜ」
メイソンの無慈悲な催促が飛ぶ。
レッカーが僕から離れていき、僕は震える右手にサバイバルナイフを構えた。オーソドックスな構えだが、カタリナに負わされた右腕の傷が激しく疼く。おまけに、以前負傷した小指は今にももぎ取れそうなほどズキズキと痛んでいた。
対するカタリナのダメージは軽微だ。「殺し合いには慣れている」とでも言いたげな涼しい顔で、彼女はナイフを逆手に握り、空いた左手を前へ突き出した。
数秒の沈黙。
先に動いたのは、やはりカタリナだった。
まるで今にも踊り出しそうな、独特なステップを踏みながら、一気に距離を詰めてくる。
勝てるビジョンなど欠片もない。だが、後退したい本能をなんとか堪えた。ここで引けば即座に狩られる――そんな直感が、辛うじて僕の足を地面に縫い止めていた。
カタリナの身体が、ふっとブレた。
全身を駆け巡る寒気に突き動かされ、僕は反射的に身体を大きく仰け反らせる。
刹那、鼻先をナイフが滑空していく気配を感じた。同時に、僕は自身の愚かさを恥じた。
そうだ、カタリナには投擲がある。あの目にも留まらぬ速さの投擲が。
投擲を避けるためにのけぞった瞬間、僕はカタリナの姿を視界から外してしまった。瞳に映るのは、星すら浮かばない漆黒の夜空だけだ。
無防備な空白を突くように、腹部へと稲妻のような衝撃が走った。
必死に体勢を立て直す。僕の腹には、棘のように小ぶりのナイフが深々と突き立っていた。
そして絶望は終わらない。カタリナは既に、次弾を投擲する予備動作に入っていた。
勝てっこない。そんな諦念が脳裏をよぎると同時に、顔を守るために差し出した左手に、二本目のナイフが突き刺さった。
悲鳴を上げる暇もなかった。
腹部と左手の激痛に意識が飛びそうになる中、僕はカタリナの鋭い蹴りをまともに食らい、無様に地面を転がった。呻きともつかない何かが口から漏れ出す。
混濁する意識を振り払い、必死に立ち上がろうとした。だが、そこへ再び容赦のないキックが飛んできて、僕は再び仰向けに地面へと叩きつけられた。
鈍くなる思考、刈り取られそうな意識。このまま眠ってしまったら、一体僕はどうなるのだろうか。
そんな考えが浮かんだ時だった。
僕を見下ろす、不敵な笑みを浮かべた青年――僕自身の顔をした『曲者の僕』が、そこに姿を現していた。
「うまくやれないなら、代わってやろうか?」
僕は唾を吐き出す。曲者の顔に向かって吐いたつもりだったが、当然届くはずもなく自分にかかった。
「君、このままじゃ死ぬよ?」
知っている。そんなことは。
「異常なほど怖がりだしさ」
だから知っていると言っているんだ、そんなことは。
「僕に任せて、休んでいたら?」
黙れ。黙れよ。
「どうしてそんなに頑張るの?」
そんなこと、決まりきっているだろう――。
「幸せに……なりたかった」
ゲボッと口から出た何かは、鮮やかな赤色だった。
「でも、そのためには……」
「そのためには?」
「前に進まなくちゃ――戦わなければいけない……」
何とか立ち上がろうと四つん這いになった僕の言葉に、曲者の僕はふっと笑うと、僕の額に指先を触れてきた。
「だったら、もう少しうまくやることだね」
その瞬間、僕の脳内へ雪崩のように知識が流れ込んできた。
それは、僕自身が経験したはずの、数多の戦いの記録だった。