暗闇へと……
夢とは、脳が過去に経験した記憶を整理する過程で見るものだという。
だが、その理屈では説明がつかないことが多すぎる。
脳がどうトチ狂ったのか、何のおさらいだかも怪しいスーパーマンよろしく空を飛び回る夢もあれば、存在すら曖昧なチェコの雪山の夢もあるのだ。
今朝見たのは、射撃場でのとある一幕だった。僕の戦闘技術のルーツかもしれない、あの純白の光景に思いを馳せながら、僕はベッドの上で「ガンフィンガー」を作った。無機質な白い壁に掛けられた時計に指先を向け、「バン」と呟いてみる。
時刻は午前五時五十九分。枕元に置かれたアラームが鳴り出す、ちょうど一分前だった。
僕は「ふう」と熱い吐息を漏らしながら、重い腰を上げてベッドから這い出した。
そのまま洗面所へと赴き、機械的な動作で歯を磨き始める。鏡に映る自分の顔は、夢の中のあの少年とは似ても似つかない。
けれど、掌に残る冷たい鉄の感触だけは、いつまでも消えずに居座っていた。
ふと、歯を磨きながら窓の外を眺めたくなった。昨夜、網膜に焼き付いたあの煌々と輝く未来都市の情景が、脳裏をよぎったからだ。
シャカシャカとリズムを刻みながらカーテンを引くと、曇天の白い光が目に飛び込んできた。残念ながら、今にも雨が降り出しそうな雰囲気だ。
背後でドアがノックされる。「どうぞ」と応じると、一人の女性が入ってきた。
「おはよう。これから食堂で一緒に朝食をとりましょう。そのあとは街の散策よ。何か欲しいものは考えてる?」
ふくよかな体格に、人の良さそうな笑みを浮かべた白人女性。イノセントの職員であり、僕の研修担当を務める『スカウト』だ。
ユニークな名前の彼女に「楽しみだよ」と返すと、彼女は大げさなウィンクで応えてくれた。
「さあ、早く行きましょう。お腹ペコペコなの!」
食堂は、無機質な机が並ぶだけの殺風景な空間だったが、優に三百人は収容できそうな広さがあった。しかし、そこにいる人間はまばらだ。昨日、シアタールームで共にガイダンスを受けた「特別振り分け者」たちが点在して食事を摂っているだけだった。
視線を向けた開放式の厨房では、数十人のコックがその数に見合わない忙しさで働いている。
「……ずいぶんガラガラなんだね」
僕が素直な感想を漏らすと、スカウトは大きな口を開けて、本日のメニューであるサンドイッチを豪快に頬張った。見た目通り彼女の食欲は旺盛なようで、皿の上の料理が魔法のように次々と消えていく。
「この施設も、最初は超満員だったのよ。当時は優秀な専門職や、特別な技能を持つ者が優先的に受け入れられていたからね」
「へえ、そうなんだ」
「けれど今は比率が逆転したわ。特技を持たない一般の移民希望者が激増したの。だから、この『特別振り分け者用』の棟は閑散としているってわけ」
納得した。昨日、何台ものバスから降りてきたあの膨大な人波を思い出す。イノセントがいくら巨大な経済圏だとしても、あの全員を恒常的に受け入れる余裕はないはずだ。となると、彼らの大半は審査に落ち、とんぼ返りすることになるのだろうか。
――まあ、記憶も居場所もない僕にとっては、関係のない話だが。
「食べ終えたら一旦部屋に戻って、荷物を全部まとめて出発よ。忘れ物がないようにね」
「わかったよ」
僕も彼女に負けじとサンドイッチを噛み切った。
しかし、ふと隣の皿を覗き込むと、スカウトのサンドイッチは既にゴーストのように跡形もなく消え去っていた。
新しい生活が始まったのだから、物語の主人公よろしく日記でもつけたいところだが、僕にはそれができない。
理由は単純だ。何故なら、僕はそのようなことが出来る身分の人間ではないから。
僕は情報局の依頼を受け、この旧・岡山地区――通称『イノセント・サーティーン』に潜り込んだスパイだ。
もちろん、スパイにだって日記を書く権利はある。だが、万が一誰かに中身を見られた時のことを考えれば、それは虚飾で塗り固めた「偽日記」にならざるを得ない。与えられた不本意な任務のために、自分のプライベートな感情まで改変せねばならないなんて、不毛の極みだ。
だから僕は、最も効率的な解決策を選んでいる。
――初めから、何も書かなければいいのだ。
「しっかりと眠れた?」
メーカーすら判別できない、イノセント独自の設計とおぼしきコンパクトな軽自動車。その運転席から、スカウトが問いかけてきた。僕は車窓に肩肘をつくのをやめ、視線を正面に戻した。
「バッチリだよ。アラームが鳴る一分前に目が覚めた」
「あら感心。うちの息子に見習わせたいわ」
「ああ、息子さんがいるんだ」
「ええ。ジェムって言うの」
僕は思わず目をぱちくりさせた。
彼女の名前が『スカウト』だと聞いた時から、僕はハーパー・リーの小説『アラバマ物語』を連想していたからだ。主人公ジーン・ルイーズの愛称はスカウト。そして、その兄の名はジェム。
「アラバマ物語繋がりで、息子さんにその名前を?」
僕の推論に、スカウトは察したように苦笑した。
「同僚にも言われたことはあるわね。でも、本当に関係ないの。ただの偶然」
「そうなの?」
「ええ。でも驚いたわ。よくそんな古い小説を知っていたわね」
「え?」
「それに、あなたはトルコ生まれなんでしょう?」
僕は思案するように、そっと自分の顎に手を当てた。
――そういえば、なぜ僕はこれほどまでに物知りなのだろう。
僕の頭には、咄嗟に引き出される多言語や戦闘技術を除いても、実に膨大な映画や本の知識が詰まっている。思考の端々に、頼んでもいないのに映画の比喩や文学的な一節が溢れ出してくるのだ。
もしかすると、以前の僕はかなりのエンタメ狂いだったのかもしれない。
自分自身の未知の過去について考え込んでいると、スカウトが慌てたように言葉を継いだ。
「……ごめんなさい。そういえばあなた、事故で記憶が曖昧だったわね」
「別に謝る必要はないよ」
本当に謝る必要は存在しない。不義理を働いているのは、偽造された経歴でここに座っている僕の方なのだから。
その後、僕が住むことになるアパートの内見に向かった。
瀬戸内海から数キロ圏内。かすかに潮の香りが漂うが、海は見えない。シーサイドと呼ぶにはあまりに微妙な立地だが、打ちっぱなしのコンクリートは頑丈そうで、なかなかに立派な門構えだ。
部屋の中も申し分なかった。ベッドや家電があらかじめ揃った四つの居室に、バスタブ付きのバスルーム。情報局からの
「脅迫」に近いミッションさえなければ、すべてを忘れてここに永住したいくらいだった。
僕が感激を伝えると、スカウトは満足そうに指を立てていた。
「次は買い出しね。モールに行って、必要なものを揃えましょう」
車を走らせること十数分。住宅地を抜け、昨夜の窓から見たあの近未来都市へと差し掛かる。
曇天へ向かって背伸びをしているような、奇抜なビル群。空飛ぶ車の代わりに、空中を無数のドローンが絶え間なく飛び交っていた。
「すごいな。ドローンが沢山だ」
「目には見えないけれど、空にも信号機があるのよ」
「信号機? 空に?」
「ええ。プログラムで空中に停止位置が細かく設定されているんですって。それで衝突を防いでいるらしいわよ」
こういう難解な仕組みを聞かされていると、なんだか自分の頭まで良くなったような錯覚に陥るから嫌いじゃない。僕は、映画の中で科学者が天才的な解決策を提示するシーンを、誰よりも熱心に見入ってしまうタチの人間なのだ。
まばらな大通りをスカウトの軽自動車が猛進し、ビル群に囲まれた巨大なショッピングモールへと滑り込んだ。
立体駐車場の電灯が青いサインを出し、スカウトの鮮やかなハンドル捌きで所定の位置に車両が停止する。ひんやりとしたコンクリートの臭いに包まれた駐車場に降り立つと、そこには道路状況とは裏腹に、驚くほどの数の車が並んでいた。
「結構、混んでいるね」
「昨日は特別振り分け者以外にも、百人以上の受け入れがあったから。その反動でお客さんが増えているんだと思うわ」
スカウトが先導するように歩き出す。
「ここは何度も来ているし、案内に関してはプロよ。安心してついてきて」
その言葉を頼もしく感じ、僕が賞賛を込めた笑みを浮かべようとした、その時だった。
鼓膜を震わせる、不快で執拗なブザー音。
『緊急連絡、緊急連絡。システムトラブルにより、施設内の電源が一時的にダウンしました。係員の指示に従い、落ち着いて行動してください』
無機質な英語のアナウンスが流れる。続いてフランス語、そしてアラビア語。
モールの自動ドアを抜けた矢先の出来事に、僕とスカウトは間抜けな表情で顔を見合わせた。
「一体、何が……」
「さあ……こんなこと、初めてよ」
多言語のアナウンスが尚も響く。やがて、それらすべてを断ち切るように――。
『緊急連絡、緊急連ら――』
ブツリ、と音声が途絶えた。同時に、モール内が完全な闇に包まれる。
ガシャン! 耳を劈くような音が響き、背後の自動ドアを封鎖するシャッターがギロチンのように落ちた。
スカウトが悲鳴を上げ、呆然とシャッターを見つめている。
「……これじゃ駐車場に戻れないね」
「そう、みたいね」
「とりあえず階下に降りて、職員の指示に従おう」
僕が促すと、彼女はハッと我に返った。
「え、ええ。そうね。……急に消えたし、あの音が凄くて」
僕は非常用電灯の頼りない明かりを頼りに、館内図を確認する。
ここは六階。駐車場直結のレストランフロアだ。ふと、後頭部に嫌な予感がよぎった。
それと同期するように、手首のGPSバンドが激しく振動する。
『BLDがモールに侵入。中央制御室を占拠。目的・武装ともに不明』
三ツ目からの簡潔なメッセージに、僕は舌打ちを堪えた。
BLD――正式名称、ブラッドライン。イノセントを敵視する過激派テロリスト。数々の爆破テロを主導し、この街が武装兵士を抱える格好の大義名分を与えた連中だ。
『戦闘は非推奨。五階の映画館事務所内に非常用外線あり。敵情収集後、当該電話にて詳細を報告せよ』
やれやれ。丸腰のまま、この暗闇を歩き回れというのか。
「どうしたの?」
スカウトが怪訝そうに覗き込んでくる。僕は平静を装い、
「大丈夫だよ。それより――」と言いかけた。
その瞬間、遠くで雷鳴のような轟音が複数回響いた。
聞き馴染みのある音。毛が逆立つと同時に、全身の血が逆流して昂るような感覚。僕の体内でアドレナリンが急速に生成されるのを、はっきりと自覚した。
続いて聞こえてくるのは、甲高い複数の悲鳴。スカウトはその音を聞いた途端、糸の切れた人形のようにその場に腰を抜かした。
――行動不能か。非情だが、その方が好都合だ。
「ちょっと様子を見てくる。スカウトはここで待機して」
彼女は涙を浮かべ、必死に首を振る。
「だめ……だめよ。あれは銃声……絶対に、よくないことが起きている」
「わかっている。だから安全な場所にいて」
「待って、何をするつもり!?」
僕は彼女の両脇を抱えると、柱の影へと力ずくで引きずり込んだ。
「ここにいて。警察が突入してきたら、君のところに真っ先に誘導させるから」
「行かないで……」
スカウトが震える手で僕の袖を掴む。僕は唇に指を一本立て、冷たく囁いた。
「だって君、頼りないんだもん」
突き放すような言葉を投げると、彼女は絶望に顔を歪め、啜り泣き始めた。些末な罪悪感を覚えた気がしたが、今の僕には足手まといを構う余裕などない。
「息子は……死んだの。中学校の、銃乱射事件で。だから私は――」
漏れ聞こえてきた告白。なるほど、彼女がこれほどまでに銃声を恐れる理由は理解できた。
けれど――それは僕に関係のない話だ。
僕は彼女の震える指を振り払い、非常灯の薄明かりに満ちた、沈黙のモール内へと足を踏み出した。