真田ミツキ
『僕は本当の僕ではないのかもしれない』
入院生活もはや一週間。目的も知れず、忙しく流れる車両群を病院の五階から眺めながら、僕はそんなことをぼんやりと考えていた。
現実感のない茫漠とした意識の中、心の表層を揺らぐ不確かな記憶たち。その中でも、モールの狭い厨房を固定カメラの視点で捉えたあの凄惨な光景は、明らかに異質だった。
薄暗い室内。僕と同じ顔をした『僕』が、映画のケイシー・ライバックさながらに、鮮やかな手際でテロリストを圧倒し、制圧してみせたのだ。
それはワゴン車内で、情報局相手に足掻いたあの一幕とは、根本的に性質が違ったような気がする。僕は一分の迷いもなく瞬時に人を殺し、あまつさえ止血のために熱したナイフを、躊躇なく自らの右胸に押し当てた。
それからプツリと映像が途切れた時、僕はイノセントの病院のベッドにいた。耳につく心音センサーの音をBGMに、映像の通りの右胸の銃創と、欠けた右耳が過去の証明をした。
その時から僕は、僕の顔をした奴のことを紛らわしいので、『曲者の僕』と呼ぶことにした。
「明人さん、食事ですよ」
通りがかったナースの声に、僕は力なく頷く。
うじうじ悩んでいても腹は減る。寄り道すら許されない、疲弊した人生。テラス席に行っても中年はいないし、少女の幽霊が怖くて深夜のトイレも我慢している有様。
更には情報局、三ツ目からの連絡も完全に途絶えた。不安で、怖くて、今にもちびりそうだ。
かつての僕は、どうしていたのだろう。
そう思うからこその、僕は本当の僕ではないのかもしれない、だ。
不吉な数字の代表格である十三号室の自室に戻ると、無人のベッドを見つめる黒髪ウルフカットが目に入った。
「やあ」
声をかけると、彼女はファッションモデルのように華麗なターンで振り返った。
「どこに行っていたんだ?」
ふわりと笑う、ぱっちりとした瞳の美しい少女。
「ちょっとね。売店に面白そうなものがないか探してたんだ」
適当に濁して彼女の横を通り過ぎる。シトラス調の控えめな香水の香りが鼻腔をくすぐった。
真田 美月。
一代で巨万の富を築いた真田コウセイの一人娘。
通称、百億ドルの少女。
実のところ、彼女はあのモールで出会った少女と同一人物だ。
テロリストを恐れず僕を助けようとしてくれた彼女を、最初は単なるお人好しだと思っていた。
だが彼女は、情報局が「命を懸けて守れ」と指定した、最高優先度の保護対象だった。
情けないことに、僕はあの地獄のようなカフェで出会った時、彼女がそんな大物だとは露ほども思わなかった。
ベッドに戻ると、併設された机に、決して美味しそうには見えない病院食がスタンバイしていた。美月の華やかな香りと混じり、褒められたものではない異臭をはなっている。
「あんまり、美味しそうじゃないな」
美月も顔をしかめた。
「僕が入院する方でよかったね」
ジョークを飛ばすと、彼女はふっと笑い、棚の上の見覚えのない、高級そうな包みを指差した。
「今日はチョコだ。美味しいぞ」
彼女はいつも、病院では手に入らない極上の差し入れをくれる。
それは味気ない病院ライフを送る僕の、貴重な楽しみの一つになっていた。
「やった、チョコ大好きだよ」
僕が喜ぶと、美月は頬を微かに染め、狭い病院机に肩肘をついて見事な上目遣いを披露した。お気に入りの絵画でも鑑賞するような熱っぽい視線に、思わず咳払いしそうになる。
「見られながらだと、恥ずかしいんだけど」
苦笑いしつつ、デザートのリンゴに手を伸ばそうとした、その時だった。
「ところで……明人」
「なに?」
「お前は、誰の犬だ?」
「……なに? 犬?」
「言い方を変えよう。誰に雇われた? ああ、因みに見当はついている。だが、お前の口から聞いてみたいんだ」
心臓が跳ね、リンゴを取り落としそうになった。
美月がそれを見て、嬉しそうに舌なめずりをする。
ドックン、ドックンと鼓動が耳元で鳴る。聞き間違いであってくれという楽観を、彼女の確信めいた瞳が容赦なく切り捨てた。
そうだ、僕は馬鹿か。
彼女はあの厨房で、僕の大立まわりを間近で見たのだ。正体が疑われるのは当然だ。
それだけじゃない。イノセントの鑑識が現場を見れば、僕が只者ではないことなど一発で露呈する。情報局の回し者だとバレるのは時間の問題だ。
――逃げ道はあるか?
今すぐここを飛び出して、いや、そんなの成功するわけが――。
「何の話かな?」
脳内が氾濫するような淀んだ思考の末、僕は最悪の手――すっとぼけることを選んだ。
美月はネコ科の猛獣を思わせる笑みを浮かべた。
背中がゾクリとする。か弱そうな少女なのに、檻に閉じ込められたような圧迫感。僕はトムに睨まれたジェリーだ。いっそのこと、鍋に入れられる前に自ら塩でも振ってやろうか。
「こう見えて、私はイノセントの有力者だ。月一の各区会合では、司会を務めることもある」
「……そうなんだ」
「人を見る目はある。多分にな。特に、男の嘘に関しては」
彼女は僕の手からリンゴを奪い取ると、そのまま自分の口に放り込んだ。
彼女はどうやら、神をも恐れぬらしい。
「ひどい味だ」
そう口にして、微笑を浮かべたからだ。
僕は呆気にとられるしかなかった。
「情報局の手の者は、既に捕縛されている。イノセントを舐めるな」
少女らしからぬ、威圧するようなワントーン低い声音。圧倒的な重圧に、額から汗が滴る。それがベッドに染み込む前に、僕は呟いた。
「……みたいだね」
チェックメイトだ。
逃げたところで捕まるのは目に見えている。それに、あの時のように戦える自信なんてない。
今の僕は恐怖に打ち震える哀れな少年だ。
僕はうなだれ、やがて嵌められるであろう手錠の感触を想像した。
その瞬間、ガッチャン! と、激しい音が響いた。
視界の端に映っていたベッド机を美月が吹き飛ばしたのだ。
楽しみでなかった病院食が舞う。美月は僕に飛び掛かり、馬乗りになって、顎をクイッと持ち上げた。
黒髪の少女が嗜虐的な瞳で、僕の口に、いつの間にか握っていた見舞いのチョコを捻じ込んできた。咀嚼の暇もないほどに、
「私のモノになれ、明人」
「……え?」
「生き残る術は、それしかないぞ」
舌上をじわりと浸食する刺激的といえるほどの甘美な甘み。
二重語をも厭わないほどの数瞬の沈黙。
反射して映る僕の表情と違って、美月の瞳は炎のように揺らぐことはなかった。
「……情報局みたいに、ブラックじゃない?」
震える声で交渉を持ちかけると、少女は艶やかに笑った。
代わりに、返答は無かった。
△
三日後。僕は晴れて――というより、重い不安を胃の底に沈めたまま退院することになった。
不気味なほど、入院中の僕は自由だった。
拘束も尋問もなく、監視の気配すら希薄。イノセントに信頼されているのか、あるいは単に舐められているのか。答えはおそらく後者だろうが、釈然としない。
美月の言葉が事実なら、工作員はおろか、あの凄腕ハッカー三ツ目までもが捕縛されたという。情報局の諜報網は壊滅し、僕が元トレント社だという身元も割れているはずだ。
事態はどう転ぶのか。
最早、階段を転げ落ちるスーパーボールのように予測不能だ。僕は病院の玄関前でバッグを手に、庭先で主人を待つ忠犬のように首を長くして、新たな雇い主の到来を待っていた。
ふと、手首のGPSバンドが震える。『三ツ目さんからの通知:はじめまして』。
読み返すほどでもない短文を、何度も凝視して呆然としていると。
キッ――。
耳障りな制動音と共に、巨大な黒い鉄塊が目の前で停止した。
大統領専用車をさらに重装甲にしたような、威圧感の塊。闘牛をシンボルとする赤いスポーツカーのように、分厚いドアが上部へ跳ね上がった。
「おう、待たせたな。さっさと乗り込め」
車内から顔を覗かせたのは、純白のワンピースに身を包んだ美月だった。
特注のリムジン。防弾仕様の極厚タイヤを履き、車体は携行ロケット弾の直撃すら鼻で笑いそうなほど頑丈そうだ。
「緊張しているのか?」
「……少しだけ」
おっかなびっくり乗り込もうとする僕の袖を、美月が強引に掴んで引き寄せた。
「何か飲むか? アルコールはないが、ジュースならなんでも揃っているぞ」
足を踏み入れた車内は、豪華絢爛というより、無機質な計器類に囲まれた作戦室のようだった。
ドカッとシートに腰掛けた美月の隣には、見慣れない少女が横たわっていた。
「……えーと、その子は?」
美月は意味深な微笑を浮かべるだけで答えない。
少女は灰色のスカートに紺色のブレザー、恐らくはイノセント中央区画の学園制服を纏っていた。その頭には、不気味な黒い目隠し用の布が被せられている。
「確かめてみるか? 彼女に、『三番目の瞳』が備わっているかどうかを」
その言葉で、すべてを察した。美月が少女の頭から布を乱暴に剥ぎ取る。
「どうやら、ただの小娘だったようだな」
布の下から現れたのは、艶やかな黒い肌を持つ、十五歳くらいの黒人の少女だった。身長は百五十くらいだろうか。カールが連なった短めのコイリーヘア。眩しそうに細めた彼女の目には黒ぶちで、大きめのレンズの眼鏡がかけられており、口には言葉を封じるガムテープが貼られていた。
「イノセントを騒がせていた天才ハッカー、三ツ目。その正体は、中央区画に住まう単なる学生というわけだ」
美月が愉悦を湛えて説明する。
「他のネズミの尋問も完了した。お前が何を目的に、何をしにここへ来たのか……お前がトレントの人間だということもな」
「……えーと」
「だが、それは今話すべきことではない。問題は今、この街で起ころうとしている危機だ」
美月は三ツ目の口から、ガムテープを乱暴に引き剥がした。
「……いたい」
少女の口から漏れたのは、かつて無線を交わしたことで記憶にも新しい、AI音声のような抑揚のない、乾いた声だった。
「聞いていただろう。明人に続きを説明してやれ」
「……」
「私は、無能は嫌いだ」
その脅しに三ツ目は小さく肩を震わせると、諦めたように半身を起こして僕を見据えた。
「……イノセントは現在、内戦の危機に直面している」
「内戦?」
僕が聞き返すと、美月が試すように被せてきた。
「明人、なぜだか分かるか?」
「ええと……テロリストや工作員が入り込んだせいで、日本政府とイノセントの間で戦争が起きるってこと?」
美月は機嫌よく指を鳴らした。
「百点だ。全部間違っているがな」
思わずこけそうになった。じゃあなぜ百点なんだ。
「明人、お前には素晴らしい才能がある。『ワトソン』の才能だ。名探偵ホームズの唯一無二の助手のように、お前は最高の間違い方をした。正解を導くためには、時として正反対の答えが必要なのだ。……まあ、私はホームズの原作など読んだこともないし、すべて知ったかぶりだがな」
良く分からない高説を垂れる美月を一瞥した三ツ目が、恐る恐る話を継いだ。
「……イノセントのセキュリティからして、BLDの侵入は本来あり得ない。つまり、内部に手引きした裏切り者がいる。彼らは情報局ですら持ち込めない軍用銃器を揃えていた。そして何より――」
「まあつまり、私がモールで買い物をしていた情報が、身内の密告によってテロリストへ漏れていたというわけだ。おかげで気ままな外出も叶わなくて困っている。イノセントは治安の良さが唯一の売りだったのにな」
彼女はわざとらしいため息を吐くなり、僕を真っ直ぐに見つめた。
「まあ、いい。ようやく、頼れる護衛が私についたのだからな」
「……は?」
「言ったではないか。『死ぬまで君を守るって』な」
頬を染めながら、くねくねとそんなことを口走る美月。
対照的に三ツ目は美月に気付かれないようにか、小さくため息を吐いていた。
そんな光景が目前で展開されるなか、僕は必死に脳内のアーカイブに検索をかけ、その事実というか、記憶を探った。
結果、ヒットせず。そんなこと言ったっけ? という感想が浮かびかけた時。
「あ」
固定カメラ視点で見た、厨房での大立ちまわり。
その時発した、『上手くやれないなら、また代わってあげるよ』という言葉。
もしかして、美月はあの言葉を曲解し、『死ぬまで君を守るって』なんて言葉に変換してしまったのだろうか?
そもそも僕が発したあれは、恐らく美月に向けられたものではなく、『曲者の僕』が固定カメラ視点で様子を窺っていた僕に向けたもので――
しかし、妙な動きを継続する美月に対し、そんな訳の分からない釈明をする気も起きず。僕は暫くその場で立ち尽くしていた。