旧後楽園
三ツ目は会議からの帰り道、リムジンの中で目を覚ました。
レッカーなる第五区画の統括者が振るった容赦のない暴力。
しかし、彼女は意外なほど冷静だった。僕が彼女を助け起こしたときに感じた『違和感』それは杞憂ではなかったらしい。
彼女はあらかじめ簡易のボディアーマーを美月の言いつけで胴体に装着していたようだ。腹部への凄まじい打撃は、そのプレートによって大幅に軽減されたようだった。
となると、あの凶暴な一撃も、美月との共謀による一種の「演出」だったのかもしれない。
どこぞのギャング映画のように、他の長たちへ裏切り者には死をと見せつけ、恐怖を植え付けるための茶番。あるいは、レッカーが口にしたコトの重大性を強調するためのパフォーマンスだ。
けれど、その真偽を美月に直接尋ねる勇気はなかった。
あの病院服の中年の言葉を借りるなら、僕は狂った世界の一部であり、実感を伴うほどに卑小な「歯車」の一部品に過ぎない。
それに、好奇心は猫だけでなく、人間をも容易く葬り去る。
まあ、そんな感じで。意外と平気そうな三ツ目だったけど、最初に顔面へ叩き込まれたフックの鈍い音だけは本物だった。美月は彼女を病院で下ろすと、「精密検査を受けろ」とだけ短く命じ、彼女の容体を確認することもなくリムジンを走らせた。
次に向かった先は、美月の住まいだった。目的地が見えた瞬間、僕は思わず言葉を失った。
リムジンは、外界から隔絶された異様な静謐さを放つ広大な敷地へと侵入していく。
まず目に飛び込んできたのは、川と堀に囲まれ、数十メートルはあろうかという電気柵付きの巨大な外壁だ。その内側には、西洋の庭園とは一線を画す「静」の美学を湛えた空間が広がっていた。
池には熱帯魚のようにカラフルだが、見たこともないほど巨大な魚が悠然と泳いでいる。さらに視線を奥へやれば、川を挟んだ向かい、小さな丘のように積み上げられた堅牢な石垣の上に、アジア特有の曲線美を持つ城郭までもがその姿を現した。
「……もしかして、あそこに住んでるの?」
思わず少年のような声音で問うと、美月は心底呆れたように鼻で笑った。
「まさか。城なんて不便な代物に誰が住む。私の住まいは『旧・後楽園』にある」
「コウラクエン?」
「かつての岡山の藩主……まあ、日本の中世貴族のようなものだ。彼らが造った広大な庭園だよ。警備に適しているからと、父が土地を買い取って屋敷を建てたんだ」
リムジンは静まり返った旧・後楽園を滑るように進み、重厚ながらも気品を感じさせる屋敷の正面で停車した。上下に分割されたドアが、機械的な音と共に自動で開放される。
車を降りる際、僕は今さらながらある事実に気づき、背筋に冷たいものが走った。このリムジンは、最初から最後まで自動運転だったのだ。無人の運転席で、ひとりでに左右に切られるハンドル。僕はそこに、かつて見た幽霊少女の幻影が座っているような錯覚に陥った。
僕たちが降り立つと、リムジンは静かにドアを閉じ、屋敷に併設された車庫という名の巨大な闇の中へと吸い込まれていった。
その光景を呆然と見送っていると、美月が僕の腕を掴んだ。
「さあ、案内してやる。キビキビ動け」
数十分前、目の前で血なまぐさい暴力が振るわれたことなど、まるで最初からなかったかのようだ。彼女は年相応の快活な笑みを浮かべ、僕の腕を強引に引き、屋敷の中へと僕を連れ去った。
△
――固定カメラ視点。
それはもはや、慣れを超越して退屈ですらある光景だ。
本日の映像は、雪の重みに耐えかねて朽ち果てようとしている山岳地帯。痩せこけた木々の隙間から覗く、終わりなき山道の景色。そこを横切る二つの影――巨躯の黒人ジャックと、アジア系の少年ケイ。
二人は氷点下の吐息を漏らしながら、使い込まれたボルトアクション・ライフルを携えていた。
「シッ」
ジャックが口元に指を立てる。ケイの反応は、反射に近い速度だった。ジャックの死角をカバーするように膝をつき、銃口を外周へと向ける。
遅れて届いたのは、風に乗って流れてきた狼の遠吠えだった。
「……狼?」
問いかけながらも、ケイの視線は標的を求めて森を走る。ジャックは腰の水筒を煽り、短く応じた。
「ああ。大きな群れだ」
「狼なら、やり過ごせるんじゃないの?」
「群れれば、連中は大胆になる……人間と同じだな」
自嘲気味な笑みを浮かべたジャックが、手元を見ず、呼吸を合わせるように水筒を差し出す。ケイもまた、視線を切らぬままそれを受け取った。阿吽の呼吸。繰り返されてきたルーチンがそこに垣間見えた。
「どうする?」
「やり合うには弾が足りない。ライフルに着剣しろ」
水を飲んでいたケイが、あからさまに表情を歪めた。
「……冗談だよね?」
「言っただろ、使えるものは何でも使う。水筒だって紐を付ければ立派な鈍器だ」
「ねえ、今から火を起こせないかな。煙で追い払うとか」
「焼肉でもする気か? その場合、主菜は俺たちになる」
背中合わせで軽口を叩き合う二人の上、丘の稜線を白い毛並みが疾走した。
「斥候だ。すぐに仲間を呼んでくるぞ」
「斥候……本当に人間みたいだ」
「武器を持たないなら、連中がこの森で最も有能な殺し屋だ」
「上からも来るかな?」
「いや、前後からだ。連中は狩りの際、最短ルートを選ぶ。小隊を組んでいるなら尚更だ」
低く、地を這うような唸り声。時速四十キロで肉薄してくる白い影。
ケイがトリガーガードに指を滑り込ませた瞬間、ジャックの囁きが耳を打った。
「……まだだ。引き付けろ」
「近づかれすぎたらマズイよ」
「五発じゃ足りない。本番は白兵戦だ」
その時、突風と共に遠吠えが響き渡った。
それを合図に、雪を蹴立てて迫っていた狼たちが、突如として進行方向を変えた。彼らは何かに怯えるように、あるいは
「獲物が違う」と判断したかのように、丘の向こうへと消えていった。
「……どうしたんだろう?」
「今のうちにずらかるぞ」
ジャックはライフルを背負い、歩き出した。納得のいかない表情のケイがその背を追う。
「ねえ、狼の作戦かもよ。油断させて背後からガブリ。オー、デリシャス・ヒューマン、ガルルル」
ケイが肉に食らいつく狼の真似をして見せると、ジャックは歩みを止めぬまま空を仰いだ。
「とにかく、離れるぞ」
そこからは無言だった。どこまで行っても既視感のある白銀の世界。道標などないはずなのに、二人は確実に歩みを進める。
「真面目な話、想像力は大事だ」
不意にジャックが言った。
「連中がなぜ引き返したのか。その理由を常に考えろ。検証し、修正しろ」
「それが間違っていたらどうするの?」
「再び検証して、修正する」
「再び検証して、修正する時間が無かったら?」
「死ぬ。俺たちは、そういう世界を生きている」
ザクッ、ザクッ。雪を踏みしめる音が一定のリズムで刻まれる。
「あれから、どれくらい経った」
「あれって……二年後に誰かが僕を殺しに来るって話?」
「そうだ」
ケイは顎に手を当て、少しだけ宙を見た。
「一年と、半年かな」
「……リミットはあと半年か」
ジャックは足を止め、ケイに向き直った。その瞳には、今まで見せたことのない種類の真剣さが宿っている。
「今日という日が、特別じゃないんだ」
「……わかってる。今日みたいに、迎え撃てばいいんだね」
ジャックは暫くの間、愛おしむようにケイを見つめ、再び背を向けた。
「いや、迎え撃たない」
「えっ……? ちょっと待ってよ、じゃあ黙って殺されろってこと?」
「いや。逃げる」
「逃げる? なんで?」
「勝てないからだ」
ケイが自分のライフルを掲げて見せる。
「これがあっても?」
「ああ」
「……ジャックがいても?」
「そうだ」
ジャックの断言に、ケイの手から力が抜けた。ジャックはその気配を察したのか、静かに告げた。
「恐れるな。お前は希望だ」
「希望なんて言われても……」
「今はまだ、勝てない。……今は、な」
「……未来の僕なら、勝てるの?」
ジャックは寂しげに、けれど確信を込めて笑った。
「そうでないと、困る」