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……ふむ。
午前四時五十九分。アラームが鳴り出す一分前、僕はダブルサイズはある豪勢なベッドの上で、半身を起こして顎に手をやっていた。
指先に髭の感触はない。代わりに残っているのは、先ほどまで見ていた「曖昧な夢」の、あまりに鮮明な体感だ。
僕にとって唯一のアイデンティティとも言える、チェコでの曖昧な記憶シリーズ。その最新エピソードを、僕は今朝も無意識に視聴したらしい。
前々回の一家団欒のような温かさとは打って変わり、今回は生死が左右されるスリリングな光景だった。
ケイという少年。彼を護るアナとジャックという『多人種の保護者』たち。
そして時折飛び出てくる、謎の『タイムリミット』とやら言葉。そして、僕が一番最初に認知していたあの雪山での記憶。これらを線で繋げれば、霧の向こうにある真実が、少しずつ輪郭を見せてくるような気がした。
……まあ、所詮は気がするだけだ。実際は繋がりなんて見えてこないし。
ピピピッ。
けたたましく鳴り始めた目覚まし時計を叩くように止め、僕はベッドから飛び起きてジーンズに脚を滑り込ませた。そのスピードは『フルメタル・ジャケット』の新兵たちにも劣らないだろう。適当に手にとった高そうなパーカーを被ってフィニッシュを決めると、そのまま部屋付きの洗面所へ赴いた。
シャカシャカと歯を磨きながら、行儀悪く室内を見渡す。
広さは約十二畳といったところか。一般的なアパートのリビングに匹敵する贅沢な空間だ。
これが、美月が僕に与えてくれた部屋だ。テレビや冷蔵庫はもちろん、電子レンジ、トイレ、簡易シャワールームまで完備され、生活に必要な家具は一通り揃っている。
壁にはなぜか男好みの渋いアメコミフィギュアが並び、沈黙シリーズのスティーブン演じるケイシー・ライバックが鋭い眼光を浮かべたポスターがこちらを睨んでいる。昨日寝泊りしたばかりとは思えないほど、部屋は僕という人間に馴染んでいた。
美月があらかじめ僕の好みを予測して、この部屋を設えてくれたのだろうか。だとしたら、あまりに出来過ぎた雇用主だ。
口をゆすぎ、顔を洗って髪を整える。
仕上げにドアノブを回し、部屋の外へと踏み出した。
四月半ば。西洋風の広大な屋敷の廊下は、まだ夜の冷気を孕んでひんやりとしていた。
これで僕の出勤は完了だ。職場まで徒歩ゼロ分。通勤ラッシュとは無縁の労働環境。
僕は少しだけ身震いしながら、大きな階段を上り、仕事場である二階へと向かった。
△
午前六時。廊下の突き当たりにある美月の部屋をノックし、「失礼します」と断って中に入る。途端、女の子特有の妙に甘ったるい匂いが鼻腔を突いた。
五十畳はあろうかという広大な空間の中央には、仰々しい天蓋付きベッドが鎮座している。そこには、黒髪を散らして控えめな寝息を立てる少女が横たわっていた。
「美月」
声をかけながら近づくが、反応はない。
僕は昨日、彼女から下された厳命に従い、ベッドサイドのスイッチを押した。瞬間、天蓋から強烈なLEDの白色光が、容赦なく彼女の顔面へ降り注ぐ。
「眩しい……」
「朝ですよ」
美月は痙攣するように身体を震わせ、「うるさい、電気を消せ」と唸った。
言われた通り消灯すると、秒速で再び寝息を立て始める。仕方なくもう一度スイッチを押した。
「クビにするぞ……」
なんて理不尽な上司だ。
昨日は「起こさなかったらどうなるか知らんぞ」と脅していたくせに。
げんなりしながら三度目の正直でスイッチを切ると、ようやく彼女は目をこすりながら起き上がった。
「……明人」
「はい」
「目障りだ。出て行け」
あまりの言い草に面食らったが、僕は大人しく部屋を出た。
廊下で待つこと数分。『二度寝を疑って覗くべきか』という懸念が頭をよぎった頃、美月が姿を現した。
若干オーバーサイズ気味のカシミアニットの袖から、若苗のような指先を覗かせている。
それを引き締めるハイウエストのワイドデニム。幼児体型ゆえに、服が身体を追い越しているようなちぐはぐさがあるが、かえってそれが奇妙なバランスを保っていた。
「おはようございます」
僕の挨拶に、彼女は虚ろな表情で「うん」とだけ返し、洗面所へ向かう。タオルと歯磨きセットは準備済みだ。
腕を組みながら見守っていると、美月は重そうな瞼のまま鏡と三十秒ほどにらめっこを続けてから、ようやく動き出した。その様子を見て、僕は心の中で『勤続七年目くらいの型落ちPCみたいだ』と感想を浮かべていた。
「何か面白いニュースはあるか?」
口をゆすぎながらの問い。僕はあらかじめチェックしていた世界情勢の要約を読み上げてみた。
「ふんっ。それのどこが面白いんだ」
ガラガラぺ、と吐き出しながらの無慈悲な酷評。その姿を見て、僕はふいに、かつてどこかで見た病院服の中年を思い出していた。
「すみません」
美月がスッと手を差し出してきたので、用意していたタオルを渡す。彼女は口を拭くと、今度は念入りに顔を洗い始めた。五分ほどかけた丁寧な洗顔が終わり、再び手が差し出される。タオルを渡した瞬間、彼女は先ほどよりも露骨に不機嫌な顔を浮かべた。
「おい。口を拭いたタオルとちゃんと替えたか?」
「もちろん」
「だとしても、これじゃない」
美月はタオルを床に放り捨て、自分で棚の奥から別のタオルを引っ張り出した。
「顔を拭くものだ、もっと柔らかい材質を選べ。特にこの棚のやつは私のお気に入りだ」
「以後、気をつけます」
「あと、さっきから何なんだ、その英国執事みたいな丁寧語は」
「ええと……一応、美月は上司だし?」
「私はハートマン軍曹じゃない。もっと気楽にいろ」
それには正直、『そうかなあ?』と思った。
△
驚かないでほしいが、この広大な屋敷に使用人は一人もいない。
それどころか美月の両親も海外を拠点にしているらしく、現状は一人暮らしのような状態だ。周囲を堀と電気柵で固めた旧・後楽園。その静謐な緑の中に佇む巨大な屋敷に、彼女はたった一人で住んでいる。
もっとも、彼女の生活は極限まで効率化されていた。
掃除は定期的に巡回するロボットがこなし、食事は業務用冷蔵庫に詰まったフリーズドライを解凍するだけ。貴族的な庭園を眺めながら彼女が送るのは、ひどく無機質で、徹底して現代的な生活だった。
「せっかくだ。朝食に何か作ってくれ」
注文通り、慣れない厨房でオムレツを作ってみたが、彼女は一口食べて「酷い味だ」と笑った。不出来な料理でようやく柔らかな笑みが引き出せたことに、僕は内心ほっと胸をなでおろす。
彼女は僕のオムレツと解凍弁当をつまみながら、巨大なマルチモニターを操作していた。三つの画面のうち一つにはニュースが、残りの二つには解読不能なデータの奔流が映し出されている。
「何をしているか分かるか?」
背後で見守っていた僕に、不意に問いが投げられた。
「さっぱり」
正直に答えると、彼女は手招きをした。
「三ツ目が介入したデータの解析だ。奴は中国の情報部隊を装ってカナダのサーバーを経由し、DoS攻撃を仕掛けていた。その発信源を探ろうとしたイノセントの情報対策部隊――その網にすら侵入し、内部で好き勝手やっていたわけだ」
専門外すぎて用語の意味は半分も分からなかったが、美月は愉快そうに続けた。
「要するにだ。三ツ目は世界最高峰の防衛技術を持つこの街でも、指折りの天才ってことだよ。味方にすればこれ以上の戦力はない」
「……彼女を、これから本格的に使っていくってこと?」
「ああ。彼女を使えば、お前の過去についても何かわかるかもしれんぞ」
「え?」
「お前――リムジンでも言っていたな。それに、三ツ目が送信してきた情報局の資料を見るに、記憶も何もかも曖昧なんだろう?」
僕が四歳児のように素直に頷くと、美月は空になったカップを差し出しながら告げた。
「この戦いは、お前のアイデンティティに関わる重要な『記憶の旅』でもあるんだ」
「記憶の……旅」
その言葉を反芻しかけた時、ピコン、とPCのメッセージ音が思考を遮った。
美月は画面をまじまじと眺めたあと、振り返って思い悩む僕の頬を、指先でいたずらっぽくつついた。
「三ツ目の検査が終了した。脳にも外傷にも、これといって異常なしだそうだ」
「そう……なんだ。よかった」
「迎えに行ってこい」
「迎えに?」
ガサッ、と音がした。
手品でも見せられている気分だった。いつの間にか美月の手に握られていたのは、瑞々しく鮮やかな暖色の花束。あまりに眩しい色彩だが、それに見合うだけの芳香は感じられなかった。
「花束でも差し出して、今のうちに親交を深めておけ。奴はお前の唯一無二のパートナーになるだろうからな」
促されるまま花束を受け取ると、予想外の「重さ」に腕が沈み、思わず取り落としそうになった。
美月はサプライズが成功したことを確信したように、ニンマリと深みのある笑みを浮かべた。
「プレゼントだ。改めて見てみろ」
花びらを傷つけないよう慎重に指を滑り込ませ、その重みの正体を探る。
彩り豊かな花々の中心に鎮座していたのは、一丁の拳銃だった。
「……なんて名前の花?」
漆黒の装飾。飾り気のない、実用一点張りのCz75。
チェコが生んだその特徴的な形状は、僕の曖昧な記憶の源流と共鳴し、仄かな因縁を感じさせた。
「名など必要ない」
僕が思わず顔を上げると、美月の視線は既にモニターの向こう側へと戻っていた。
「さっさと行け。コーヒーのおかわりを置いてな」
△
三ツ目への迎えは、リムジンではなく自動運転のセダンだった。
ひとりでに、それでいて滑らかに左右へ切られるハンドルを後部座席から眺めながら、「まるで幽霊列車だ」と呟いてみる。
セダンは返事をする代わりに、無機質なカチカチという音を立ててウィンカーを出した。
僕は溜息を吐き、パーカーのポケットに突っ込んでいた拳銃を、アメリカのギャング気取りで取り出した。
銃身の刻印を眺めていると、夢の情景が脳裏に蘇る。チェコの雪山。泥と水にまみれ、それでいて純白な、突き刺すような冷凍庫の世界。
……もしかしたら、あの夢は「本当」のことなのではないだろうか。
僕はスノダ・ケイという名の少年で、誰もがグルになって僕を騙している。トレント社なんて設定も、情報局が僕を縛るための嘘かもしれない。
だが、ひとつだけ致命的な矛盾がある。
夢の中に映るスノダ・ケイの顔は、今の僕とはまるきり別物なのだ。
僕は愛でるように、拳銃の刻印をなぞった。その感触は、雪山で感じたような冷徹な凹凸を秘めていて、妙に心地よかった。
『間もなく、目的地に到着します』
リムジンにはなかった親切なアナウンスが流れ、僕は銃を隠した。
美月によれば、護衛として銃の所持は許可されているらしいが、カウボーイのように見せびらかせばトラブルの種だ。
ドアが開く。降りようとすると、車載AIがこれまた親切に告げた。
『この乗降口は停車禁止区域です。乗車されるまで、五分間隔で巡回に上がります』
持つべきものは、AIの友人かもしれない。
僕は左手に花束を抱え、右手をポケットの銃に預けたままエントランスへ向かった。自動ドアをくぐろうとした瞬間、眼帯をした無表情な少女――三ツ目と鉢合わせた。
「やあ」
「……」
「思ったより元気そうで安心したよ」
彼女の荷物を受け取り、代わりに花束を押し付ける。三ツ目は困惑したように目を剥き、不格好にそれを受け取った。
「ど、どうも」
「僕のタイミングが悪くてさ、車が行っちゃったんだ。数分で戻るらしいから、そこのベンチで休まない?」
プラスチックとも木製ともつかない、正体不明のベンチに二人で腰を下ろす。
「喉、渇いてない?」
「大丈夫」
よかった。実はお金持っていないんだよね。
僕は太ももを利用して肩肘をつき、花束を珍しそうに見つめる彼女の横顔を眺めていた。
「……ねえ」
沈黙を破ったのは三ツ目だった。
「なに?」
「あの時……私を助けに入ったのは、サナダ・ミツキからの指示?」
僕は呆れるほどに透き通った蒼穹を仰いだ。風が吹き抜け、彼女の方から病院特有の、あの鼻に刺さる独特な匂いが漂ってくる。
「いや。君が殺されそうだと思ったから」
「私は、逆の立場なら助けない」
「だろうね」
「恩義も感じていない。あなたが勝手にやったこと」
「全く、その通りだ」
「……あなたは、馬鹿なの?」
直球な問いかけに、僕は苦笑いを浮かべた。
「別に女の子を助けるヒーローになりたかったわけじゃない。どうせ僕も殺されると思ったし、何より、あの男の態度がムカついた。……まあ、そんな程度の理由だよ」
「……そう」
三ツ目はポスッと、花束に顎を埋めるようにして顔を伏せた。そのまま正面を見つめて動かなくなる。
正直、当時の心境なんて自分でもよく覚えていない。なぜ助けたのかと聞かれても、答えようがないのだ。
僕は曖昧だ。
その事実に気づくたび、足元が崩れるような恐怖を感じる。けれど、人間は常に理由を求める。納得させるだけの材料を提供できなければ、僕はただの愚か者として扱われるだろう。
そうなれば、バディとしての信頼は得られない。
そんな打算的な内面を隠し持っている程度には、僕は自分を人間だと思っているつもりだった。