困惑
その日の夜。美月の髪をドライヤーで乾かしている時のことだ。
「全く……厄介な案件が舞い込んだものだ」
温風の音に混じった彼女の独り言。内容が掴めない僕は、困惑しながらも手を動かし続けた。すると、美月が鏡越しに言葉を重ねる。
「実はな、メイソンに、デートに誘われた」
「は?」
思わず手が止まった。美月はそれを見て、愉快そうに鼻を鳴らす。
「お前が保健室で転がっている間、食堂で声をかけられてな。『シンラとアキも交えて遊園地に行こうぜ』などとほざいていた」
「シンラも交えて遊園地……メイソンの狙いは何だろう」
「さあな。今回に限っては見当もつかん」
「君でも?」
「ああ。そこが奴の恐ろしさだ。一見、盤面を無視したような愚策を平気で打ってくる。だが気づいた時には逃げ場を失い、チェックメイト。それがメイソンのお得意の戦法だ」
「……つまり、警戒が必要ってことか」
「いや、逆だ。深読みしすぎて自滅した連中を、私は嫌というほど見てきた。意味のない推測にリソースを割くのは無駄だ。いっそ、遊園地でのデートを全力で楽しんでしまうのも手だぞ?」
「楽しめるの?」
僕が問うと、美月は白い歯を覗かせて振り返った。
「なんだ。楽しんで何が悪い?」
「いや……相手が未知数すぎるし」
「妬いているのか?」
「……いやいや」
否定しつつも、美月は上機嫌に足をぷらぷらと上下させていた。
「安心しろ。メイソンの目当てはどうせシンラだ。ダブルデートという体裁を整えつつ、当日は隙を見てシンラとペアを組みたがるさ」
「そうなのか?」
「ああ、『ミス・ハラキリ』率いる第一区画とのパイプは、魅力的だろうからな」
「ミス・ハラキリ……?」
「シンラの別名だ。そして――『ハラキリ』は日本語で、己の腹を切ることを意味する」
「腹を……切る?」
「日本の古い風習だ。イノセント創設時、第一区画の立役者たちは数十名が揃って腹を切ったそうだ。同族同士で血を流し合ったことへの鎮魂、そして先祖への敬意だという」
狂気だ、と思った。
おしとやかの象徴のようなシンラの背後に、自ら刃を立てる集団がいる。それが、余計不気味さを増させる要因になっている気がした。そんな僕をよそに、美月は淡々と続けた。
「それに、力を持たない中央区画長なんかに、奴は興味を持たない」
力を持たない――その言葉を、僕はすぐには咀嚼できなかった。
中央区画長である美月は、あの区画長会議においても上座に君臨し、一癖も二癖もある怪物たちを冷徹にまとめ上げているように見えた。
それに、中央区画にはイノセント最大級の軍備が、文字通り力の象徴として控えているはずだ。
僕がその矛盾を指摘すると、美月は返答の代わりに、自身の額から指先で黒髪をすくい上げた。
「明人。お前は、金庫の番人が世界一の富豪だとでも思っているのか?」
指に巻き付け、弄り、そして飽きたように放り出す。
「装置に過ぎん。中央区画は、多様な価値観がひしめくイノセントを繋ぎ止めるための部品だ。本来、中央は意思を持たない。持ってはならないのだ」
複雑怪奇な力学だ。だとしたら、なぜ彼女は狙われるのか。
「簡単だ。私がその制約を脱しようとしているからだよ」
「え?」
「イノセントに情報局を引き入れたのは、私だ」
思考が停止した。あまりにも唐突で、常軌を逸したカミングアウト。
「……何のために?」
「決まっている。この街を守るためだ。第三区画の雅静を筆頭に、パワーバランスは歪み始めている。均衡を維持するためには、外部の介入が必要だった」
「じゃあ……情報局から送られてきた僕のことも、最初から……」
「もちろんだ」
腑に落ちた。
凄腕ハッカーである三ツ目を擁する情報局の精鋭たちが、なぜこうもあっさりと捕縛されたのか。
その違和感の正体は、招いた主本人が網を張っていたからだ。
けれど、そのとき脳裏をよぎったのは、頭に布を被せられ、理不尽に命を散らした喋ったこともない元同僚の姿だった。
「あのときは、ああするしかなかった」
美月は僕の内心を見透かしたように、鏡を鋭く見据えた。
「雅静たちは情報局を表舞台に引きずり出し、スパイを招き入れた私を玉座から引きずり下ろそうとした。そうなる前に、私は証拠を始末しなければならなかった」
だとしても。自分に協力していた者たちを駒のように使い捨てて……。
「情報局の連中は優秀だったよ。しかし、私が招いたことすら知らずに死んだ者も多い」
「……どうして今、それを僕に話したの?」
美月は長い沈黙を置いた後、囁くように言った。
「知りたくなかったか?」
「いや、そういうわけじゃ……」
かつて情報局にいた僕の命は、仲間の死体の山の上に立っている。その重さに押し潰されそうになり、僕は視線を落とした。
「そんなものだ」
美月の視線が、鏡越しに僕を射抜く。
「例えば、お前が小説を書いたとする。それを買おうと、一人の少年が自転車で書店へ向かった。彼にとって初めての、小銭を握りしめての大冒険だ。だが、少年は暴走したトラックに撥ねられ、ミンチになった」
あまりに凄惨な比喩に、絶句する。
「聞かせてくれ。少年を殺したのは誰だ?」
「……トラックだ」
「違う。お前が本を書かなければ、少年は家を出ることはなかった。つまり、死ぬことはなかった」
「……何が言いたいの?」
「黙って、何もせず家に引きこもっていれば、誰も死なずに済んだのだ」
その瞬間。僕は、この広すぎる屋敷に漂う空虚の正体を理解した。
かつて大勢の使用人が行き交い、活気に満ちていたであろう廊下。笑い声が絶えなかったはずのキッチン。家族同然だったという彼らを、彼女は自らの手で、バッサリと切り捨てたのだ。
この孤独な静寂は、彼女が背負った罪の重さそのものだった。
震えそうになる手を、必死に抑えつける。
僕は、護衛として選ばれたのではない。地獄まで共に歩む、美月の「心中相手」として選ばれたのだ。
「今日はもう遅い。ゆっくり休め」
美月は立ち上がり、そのままベッドへと沈み込んだ。
僕は呆然としたまま壁際へ行き、照明のスイッチに触れる。
「おやすみ……」
闇に包まれた空間は、ひどく切なく、そして静寂に満ちていた。
△
美月の部屋を出ると、すぐ隣、三ツ目の部屋の扉が細く開いていた。
隙間から覗き込めば、暗闇の中で唯一の光源となっているディスプレイの前で、せわしなくキーを叩く小さな背中があった。
「扉、開いてるよ?」
呼びかけたが、返答はない。ため息をつきながら壁のスイッチを入れると、不意の光に彼女が肩を跳ねさせた。
「目が悪くなるよ」
「……扉、閉めて」
ぶっきらぼうな要求。僕は苦笑して手を振り、そのまま立ち去ろうとしたが、三ツ目は首を横に振った。
「違う」
短い付き合いだが、なんとなく察しはついた。
秘密の相談をもちかけようという魂胆だろう。言われた通りに退路を断つと、彼女は再びモニターへと向き直った。絶え間なく情報の断片が奔流となって流れるスクリーンを、僕は彼女の背越しに眺める。
「どうしたの?」
「サナダ・ミツキは、嘘をついている」
あまりに不穏な導入だった。僕が顔をしかめると、彼女の声はさらに低くなった。
「私の知る限り、サナダ・ミツキと情報局が現在まで接触を持った事実はどこにも存在しない」
会話を盗み聞きしていたことへの苦言よりも、内容の方が強烈だった。
「どういうこと? 美月は『自分が情報局を招き入れた』と言っていたよ。だから僕らの位置を割り出せたんだよね?」
「……違う」
「じゃあ、一体どうやって僕らは捕まったの?」
三ツ目は、キーボードを叩く手を止めた。
「情報局の内部、いや、イノセント入りを果たした者のなかに裏切り者がいる」
「裏切り者?」
「そう。サナダ・ミツキはその内通者を通じて、情報局の存在を知った。イノセントの中央データベースには、私たちの捕捉記録なんて存在しない」
僕は大層な間抜け面を晒していたに違いない。
今さら裏切り者がどうこうと言われても、僕にとって情報局はすでに過去だ。読み終わった推理小説の犯人捜しに、何の意味があるというのだろう。
「……それが本当だとして、僕にどうしろって言うんだ」
「警戒して……私たちは、ある一定のラインを越えた瞬間に、彼女に使い捨てられる」
「……もしかして、僕のことを疑ってる?」
僕が吐き捨てるように言うと、三ツ目は無機質な瞳で僕を見上げた。
「疑う、何故?」
「いやだから……僕がその裏切り者なんじゃないかって疑ってるんでしょ?」
「それはない。あなたは潜入以降、常に生体デバイスに接続されている。思考の揺らぎも感情の波も、すべてAIが解析し続けているから」
「つまり?」
「あなたが裏切り者である可能性は皆無。実際、今の私の発言を聞いても、あなたのUI値に特筆すべき変動は見られない」
UI値。以前にも聞いた、感情を数値化する呪いの尺度。
僕の潔白は、僕の良心によってではなく、手首に巻かれた機械の計算によって証明されているらしい。
些末な寂しさとともに、僕は言葉を繋げる。
「……それで、僕にどうしろと?」
「警戒して。彼女が嘘をつくということは、何らかの思惑があるということ。つまり、サナダ・ミツキを信じないで」
三ツ目の鬼気迫る忠告。だが、僕の心は驚くほど冷めていた。
恐怖はある。言いようのない不安もある。けれど、監視され、解析され、自分の曖昧ささえ数字で突きつけられるこの世界で――何を信じ、何を疑えばいいのか。
「……僕は、もう、どうしていいか分からないよ」