おやすみ
出発前、あんなに上機嫌で「私とお前のデートだ」などと口にしていたくせに。
結局のところ、美月は遊園地での時間の大半を、親友であるシンラを独占することに費やした。
冷静なシンラの隣ではしゃぎ回り、子供のように声を上げて飛び跳ねる。そして、遊び疲れて腰を下ろしたベンチで、シンラの膝を枕代わりに泥のような眠りに落ちてしまった。
時刻はすでに夕刻。人気の途絶えた遊園地に降り注ぐオレンジ色のコントラストが、シンラの纏う艶やかな着物の色彩さえも塗り替えていく。
シンラは美月の頬にかかった黒髪を優しく整え、慈しむようにその頭を撫でていた。その所作は、まるで幼子を見守る母親のようだ。同級生のはずなのに、彼女だけが十も歳を重ねているのではないかと錯覚するほどの、静謐な包容力がそこにはあった。
「楽しめた?」
僕が問いかけると、シンラは額縁の中の絵画のように微笑んだ。
「ええ、とても」
そうかな、と僕は内心で首を傾げる。僕の目には、彼女が奔放な美月に振り回され、ただ「無」の境地で付き合わされているように見えたからだ。
そんな僕の困惑を見透かしたのか、シンラは唇を綻ばせてクスクスと笑った。
「美月と友達になるまで、私はずっと退屈でした」
不意に漏れた告白。その声音には、隠しようのない切なさが孕んでいた。
「……親友、なんだね」
僕が確認するように聞くと、シンラは再び眠る美月に視線を落とし、祈るような手つきでその髪を梳いた。
「この子は……とても可哀想な子です」
問いに対する答えとしては、あまりに歪で、妙に引っかかる表現だった。
「何度も、言ったのですよ? 委員長なんてすぐに辞めて、私のいる第一区画にいらっしゃいって」
それは、実質的な「亡命」の誘いだろう。
中央区画という危うい均衡の核にいる美月に対し、他区画へ来いと告げるのは、単なるお出かけの誘いなどではない。
「美月は……なんて答えたの?」
シンラが顔を上げた。夕闇に沈みかけた彼女の瞳から、ふっとハイライトが消える。
「『私は第一区画みたいに堅苦しいところでは生きられない』そう、笑われました」
他人の領地を「堅苦しい」と断じるのは、あまりに不敬で失礼な言い草だ。だが、身の安全よりも居心地の良さを、義務よりも自由を優先してしまうのは、いかにも美月らしい選択だとも思えた。
シンラは感情の読み取れない表情を浮かべたまま、瞳の中に燃えるような夕焼けを映した。
「美月さんは、恐らく……誰も殺したくないのでしょうね」
「……殺したくない?」
「人は、生きているだけで、誰かを、何かを殺してしまいます」
風が凪ぎ、彼女の真っ黒なロングヘアがしなやかに揺れた。
花畑に迷い込んだかのような甘い香りが、僕の鼻腔をくすぐる。折れてしまいそうなほど可憐な外見に反して、その瞳には凍てつくような信念が宿っていた。僕はそのとき、彼女の瞳の色が、吸い込まれそうなほど深いダークブラウンであることを再認識していた。
「誰も、何も殺さない唯一の方法を、あなたはご存知ですか?」
その問いに、僕は昨夜の美月との会話を思い出していた。
少年の命を奪った、小説家とトラックの比喩。
「……何もしないこと、かな」
僕が答えると、シンラは花が綻ぶように、にこっと笑った。
「自分を殺すことです」
△
結局、美月はベンチで目を覚ますことなく、遊園地デートはお開きとなった。
僕はすよすよと寝息を立てる美月を抱え、自動運転車に乗り込む。
その後銃声は鳴り響くことなく、僕らは呆気ないくらいスムーズに帰還を果たしていた。
寝入った彼女を抱え、屋敷に入る。
しかし、彼女は沢山汗をかいた。このままベッドに運んで寝入らせてよいものだろうか?
そんな風に悩んでいた僕だったが。
「おい、明人」
彼女は自分の部屋に入るなり、パチリと目を覚ました。
「シャワー浴びてから寝た方がいいよ」
僕の言葉に、美月は首を振った。
「シャワーは浴びる」
「てことは、まだ寝ないってこと?」
頷いた美月をゆっくりと床に下ろすと、彼女はシャワールームに向かいながら。
「映画を見るぞ」
「映画?」
「シアタールームで映画鑑賞だ。バターと塩をたっぷりかけたポップコーンを用意して、三ツ目と待機しておけ」
「あの……髪を乾かすのは?」
「いらん、一人でも出来る」
そうしてシャワー室に入っていった美月を見て、僕を目をぱちくりしていた。
美月は自己管理を徹底する人間だ。今日は遊園地でたくさん屋台のお菓子を食べていたし、それに加えてバターたっぷりのポップコーンを、しかも夜に食べるなんて初めての出来事だった。
「おっと、いけない」
僕は慌てて美月の部屋を後にする。
この屋敷には自己管理を徹底する美月と、その対極にある存在もいるのだ。
「三ツ目!」
部屋に駆け込むと、彼女はぐちゃぐちゃになった真っ暗な部屋の中、回転椅子を利用してくるりと振り返った。
「……なに?」
「話は聞いていたよね? なら準備をしておいてよ」
「……映画を見るだけでしょ?」
「キミもシャワーを浴びておいて、ってことだよ」
「昨日、入った」
「今日入る時間が無くなるかもしれないでしょ? 僕は今からポップコーンを大量に仕込まなきゃいけないから、先に入っておいて。後で髪を乾かしにいくから」
「大丈夫……一日くらい入らなくても」
「そういうのは自分で判断しちゃだめだよ。三人で暮らしているんだからさ」
そうして僕は、明らかに不満げな様子の三ツ目を無理やりシャワー室に放り込み、小走りで厨房に向かった。
△
何とか美月がやって来るまでにシアタールームの映画セッティングを整えた僕と三ツ目は、バターの香りが充満した部屋にて待機していた。
シアタールームは、美月邸の中でもかなり広い部屋で、ベッド代わりになりそうなソファがいくつも転がっている。果てにはバーカウンターみたいな設備まで完備しているので、管理が大変なのだ。
僕はぼーっとソファに佇む三ツ目を横目に、キッチンから持ち込んだドリンク類を冷蔵庫に補充していると、さらさら黒髪をたなびかせ、寝間着を着込んだ美月が部屋にやってきた。
「お、三ツ目。ちゃんと風呂に入ったか。感心、感心」
美月はソファに座るなり、三ツ目を人形のように抱き寄せ、犬のように撫でまわしていた。対して、三ツ目は猫のように微妙そうな顔を浮かべる。
「さて、映画の時間だ」
ホームシアターと口にするには巨大すぎる機械に、映像が灯った。
ぽすっ、ぽすっと、美月と三ツ目がひっきりなしにポップコーンを口に運ぶ。
最初に上映されたのは二千三十年に制作されたという、ド派手なアクション映画だ。
内容は希薄で、メッセージ性も薄いし、哲学的要素もない。それでも美月は面白がって、「あの銃はイギリス製のポンコツ銃だ」や、「ハッカーの解像度が低いな」などと、口々に感想を漏らしていた。
美月の解説を聞いていたら、あっという間に三時間が経過。
部屋の明かりをつけると、その惨状に目を覆いたくなった。皿のポップコーンは空になって、机だけでなく、床にもポップコーンが散乱していた。
美月はふう、と息を吐いた後。いつの間にか、すやすやと寝息をたてていた三ツ目を抱き枕状態から開放した。
「お開きだ。三ツ目を部屋連れていけ」
「分かった」
美月は立ち上がると、シアタールームを後にしようとする。僕が先に部屋を掃除しようとすると。
「掃除はいい」
思わず振り返る。彼女は背中を見せたまま、つやつやの黒髪を披露しながら、
「今日はもう寝ろ。明日は忙しい一日となるだろう」
美月は首を少しだけ傾け、猫のようにすぼめた横目を覗かせながら。
「おやすみ」
それは僕が初めて彼女から聞いた、眠りの挨拶だった。