彼女を置いて
屋敷に帰ると、美月は途端に上機嫌になった。
鼻歌を歌いながら車を降り、一人キッチンへと向かって行った。
「まだ時間はある」
「……え?」
「私手ずから、料理を作ってやろう。名誉なことだぞ、私の手料理を食べられるのは、世界にも片手で数えられるくらいしかいない」
美月はフライパンを掲げながらそんなことを口にした。正直、三ツ目が言ったように彼女はマトモには見えなかった。
それどころか、僕の心中では、今まで美月に抱いていたマイナスな印象が噴出するように渦巻いていた。
「……何か」
「なんだ?」
「戒厳令まで……対策したりとかは?」
僕が問いを口にすると、美月は笑った。
「お前が言ったんだろうが」
「……え?」
「死ぬまで私を守るんだろう? 信じているからな」
僕の背中に、冷たい汗が伝った。彼女は本気で言っているのだろうか?
それとも、単なるジョークを口にしているのだろうか?
笑みをこぼしながら食材を用意する美月。困惑した僕が選んだ選択は、
「ちょっと……三ツ目の様子を見てくるよ」
この場から逃げ出すことだった。美月は料理に夢中なようで、片手間に「ああ」と答えた。
△
二階に上がろうとすると、階段の踊り場では、神妙な面持ちを浮かべた三ツ目が立っていた。
「アキ」
とててっと近寄ってきて、僕の腕を掴んで、傷を確かめた三ツ目は悲痛な面持ちをした。
「……ひどい」
「大丈夫……もう、そんなに痛くないよ」
正直、死ぬほど痛いけど気丈に振舞った。
すると、三ツ目は幼子のように、そのまま僕のお腹に抱きついてきた。こんなことは初めてだったので、面食らっていると。
「私には兄がいた」
三ツ目の初めて話す身の上話だった。そして、彼女の口ぶりからして、もう彼女の兄はこの世に存在しないのであろうことは察しがついた。
僕は、彼女の背中に手を回して優しく撫でながら。
「どんな人だったの?」
「……優しくて、勇敢だった」
「そうか……素敵な人だったんだね」
「アキに似ている」
三ツ目の言葉に、何故か僕の目からは涙が零れ落ちた。生暖かい雫が頬を伝って、三ツ目のうなじにポタリと落ちる。
三ツ目は驚いたように顔を上げて、みっともなく、くしゃくしゃになた僕の顔を見つめた。
「似てないよ……」
「……似てる」
「だって僕は……勇敢じゃないから」
脳裏に浮かぶのは、雅静を前にみっともなくブルブル震えていた時の姿だ。
それを浮かべてみて、僕は今までここに来てから、まともに弱い自分を保持したまま戦えたことがないことに気が付いていた。
僕の中には曖昧があって、そしてその曖昧の中には強い僕がいる。
その強い僕が上手いこと場を保たせてきただけで、恐怖感を覚えてからはもう無茶苦茶だ。
雪山で過ごした訳の分からない夢も見るし、美月のような女の子にもペットみたく扱われているし、
「もうどうしていいのか、分からないんだ」
三ツ目は暫く僕の顔を見つめたあと、意を決したように口を開いた。
「彼女は……アキの指標になると言っていた」
それは美月に初めて区画長会議に連れて行かれる道中での出来事のことだろう。
「曖昧」だと口にした僕に対し、美月が「私が指標となる」と口にしたのだ。
「……そうだね」
「今度は……私がアキの指標となる」
僕は呆気にとられたように三ツ目の瞳を見つめていた。頼りげがなくて、奔放で、しかしそれでいて優しさのある彼女の瞳を。
「それは……」
「私はアキを死なさない。守ってあげる」
素直に、その言葉を嬉しく思っていた。沸々と沸きあがる、何かを感じていた。
僕は僕として意識を得てから、誰からも「守る」なんて言葉を投げかけられたことが無かったからだ。
絶え間なく液体が溢れ出てきて、揺れる視界。僕は彼女に全てを委ねるため、強く抱きしめ返そうとした。
でもその時――その時だった。僕の脳裏に浮かんだのは、対照的に僕がずっと守護をしてきた人物。
鎖のように僕を縛る存在。美月の姿だった。
これは……良心なのだろうか?
彼女を置いて逃げるという選択が、三ツ目の救済を受け入れる上で、唯一引っかかる部分だった。
「美月は……」
三ツ目が顔を上げる。僕は乱暴にシャツで涙を拭いながら、
「美月は……逃げないのかな?」
三ツ目は少しだけ俯いてみせながら。
「彼女は……逃げない」
「……え?」
「というより、逃げられない」
「どういうこと?」
「区画長に選定される存在は、全員脳に特別なICチップを埋め込まれている。イノセント法に抵触すれば、特殊な電気信号が発信され、脳回路が焼き切れる。つまり、生涯、イノセントから寝返ったり、他国に亡命したりすることが出来ないようにする為の措置」
僕は目を剥いていた。
「これは、イノセントで『大いなる呪い』とも呼ばれている」
背中に羽が生えているかのように、鎖に繋がれた僕よりずっと自由人だと思っていた美月が、途端に不自由の象徴のように思えた。
「つまり、美月は……」
「だから、足掻くんだと思う。死が訪れるその瞬間まで。それが、区画の長を任された者の背負う宿命」
三ツ目は一拍おいてから、全ての息を吐き出すようにして、
「アキと私を道連れにして」
その時、廊下を歩く小さな足音がして、階段の途上で抱き合っていた僕と三ツ目は離れた。
「おい、そんなところで何をしている? というか明人、お前いつまでそのみっともないシャツを着ているんだ。早く着替えろ」
曲がり角から出現した美月は、お玉を持った状態で腰に手を置いて呆れた様子だった。
「あ、ああ……ごめん」
「着替えたらダイニングに来い。料理は続々と完成している。お前らは先に食べ始めろ」
三ツ目が決心したように何かを言いかけたけど、僕は口に手を置いてそれを遮った。
「……着替えたら、すぐに行くよ」
「そうしろ。もうすぐ最初の料理が出来上がるぞ」
美月の足音が遠のいていく。三ツ目の口から手を離すと、彼女は不満げな瞳で僕を見た。
「アキは……どうするつもりなの?」
「そうだな……」
僕は包帯でグルグルになった右手を見た。動かしづらいけど、辛うじて拳銃の握れる巻き方だ。
「キミは僕が兄みたいって、言ったね」
「そう」
「僕にとっては、妹みたいかもね」
三ツ目の頬が少し紅潮した。思わず苦みを含んだ笑みが漏れる。
「キミと一緒に、何処か遠くに行くのもいいかも。僕は十二ヵ国語喋れるし、キミは最先端の機器が扱える。住むだけなら、外国でも難しくないだろうね」
「うん」
「小さなアパートを借りて、えーと……キミはだらしないから、僕が家事を担当するよ」
「……うん」
「料理は苦手だけど、直ぐに上手くなるさ。どこかのお店で修行するのもいいかもしれない」
「……ねぇ」
「けどそれってさ……美月がいたから気が付けたことなんだ」
「……アキ」
僕は俯く三ツ目の頭を撫でた。目にかかった髪を払って、彼女の黒い瞳を見つめる。
「ケジメはつけたい」
三ツ目は僕の瞳を見返した。
「ケジメ……」
「ああ。美月を裏切るのなら、正直にそれを彼女に直接伝えたい」
それを聞いた三ツ目は、驚いたように目を見開いた。
△
右手を走る痛みに苦戦しながらなんとか新しい服に着替え、部屋の外で待っていた三ツ目とダイニングに赴くと。
食卓に置かれていたのは湯気を立たせた蒸し豚の野菜巻きだった。
鮮やかな赤っぽいソースがかかっていて、ごま油とにんにくの良い香りが部屋内に充満していた。
三ツ目の方から、思わずと言った風にゴクリと唾を飲み込む音がした。僕も同じだ。脳内を支配してた痛みの信号に付け加え、空腹が加わってカオスになっていた。
キッチンの美月は他にも手際よく料理を作り続けていて、その腕前を見れば、今までの僕の家事は何だったんだという疑問すら感じさせるほどだ。
「おーきたか。明人は手が上手く使えないだろう。三ツ目、皆の分の皿を出してやってくれ」
三ツ目は若干緊張した面持ちで僕を見た。彼女は家事なんて一切したことないので、どの皿がどこにあるかなんて、分からないのだ。僕は彼女の背後に張り付いて、この料理に相応しい皿が置かれている棚を教え、机に運ぶまで指示出すをする。
三ツ目はまるで化学兵器でも扱うかのように、慎重に卓上へ皿を配置していった。
「お前らはもう食べ始めていろ。冷めてしまう」
僕と三ツ目は顔を見合わせ、そのまま席へと座った。
三ツ目は幼児のような持ち方でフォークを手に取り、蒸し鶏に突き刺して、大きな口を開けてそれを頬張った。
「ッ!」
三ツ目はもっちゃもっちゃ咀嚼しながら、慌てたように次の蒸し豚をフォークで突き刺す。しかし、中々咀嚼が終わらないので、暫く次の蒸し豚はお預けのようだ。
「美味しい?」
僕が尋ねると、三ツ目はハムスターみたく頬を膨らませながらこくんと頷いた。
僕も蒸し豚をつまんで口に運ぶ。ピリッとしたスパイスの香ばしさを感じた瞬間、濃厚な味わいに驚いた。
「美月……おいしいよ。三ツ目もおいしいって」
美月はキッチンでてきぱきと作業しながら、
「当然だ。私の料理がマズイわけがない」
言いながら、ミトンをつけ、次なる料理を運んできた美月。鍋に入った大量のビーフシチューで、それを見た僕はもちろん驚愕した。
「え……よくこんな短時間でつくれたね?」
「流石に数十分で作れる代物ではない。仕込みは昨日から行っていた」
昨日……から?
それはおかしい。昨日は朝早くからおめかしして、夕方過ぎまで遊園地デート。更には帰ってきてから映画を見て、と。イベントは盛りだくさんだった筈だ。
とても料理ができるような、そんな時間は無かった。
僕が暫く静止していると、美月は察したように笑いながら、
「昨日はあまりよく眠れなかったからな」
そうだとしたら、美月の睡眠時間は遊園地のベンチで寝入って、家に帰るまでの一、二時間だけだ。毎日二十三時には睡眠をとる彼女にとって、たった数時間の睡眠は酷だろう。
それに加えてこの沢山の料理……。
思えば、美月は遊園地に帰ってきたときから、少し様子がおかしかった。
まさか彼女は……既にその時には、この状況を予想していたということだろうか?
「どうした明人、しっかり食え」
「う、うん」
僕は若干動揺しながらも、スプーンを手に取ってビーフシチューをパクリ。
奥深い濃厚な味わいに、脳がぴりつくような感覚さえした。
「美味しいよ……本当に」
美月は次なる料理を運んできた。海鮮類が散りばめられた彩り鮮やかなサラダボウルだった。
「さて、私も食べるか」
美月はその料理を最後に、ようやく自分も席についた。
「しっかり食って、精をつけてくれ。お前らには一番に働いてもらわなければならん」
僕と三ツ目の手が止まる。
美月はそれを見ても変わらない様子で、サラダをつまみながら。
「どうした?」
三ツ目の手がふるふると震えていた。思わずその手を握りたくなるのを僕は堪える。
「アナタは……うすうす感づいているハズ」
三ツ目がフォークを握りしめながら、意を決したようにその口を開いた。
美月は尚もしらばっくれたように、
「何をだ?」
「アナタは……勝てない。雅静の送り込んだトレント社の兵たち。手駒のないアナタは翼を捥がれた天使も同じ」
「理系にしては詞的な表現だな。素直に感心したぞ」
「はぐらかさないで」
三ツ目の強い剣幕に、美月は軽く肩をすくめてみせた。
「ハッキリ言え。何が目的だ?」
「私たちは……戦えない」
三ツ目の震える声音。美月はその発言に対し、分かりやすく嘲笑した。
「だとして、だとしてだ。お前たちはここから、一体どこに逃げるつもりだ?」
「私は……既に逃走用ルートを用意してある」
「ほう、それを私が察していないとでも? そのルートは既に潰してある。なんなら、試してみるがいい」
美月の言葉に、三ツ目は動揺しなかった。
「アナタは嘘つき」
その言葉に、初めて美月はピクリと眉を動かした。
「私は嘘つきが嫌いだ」
「だとしても、ウソをつかない理由にはならない」
美月はサラダを弄るのを辞め、背もたれに体を預け、腕を組んだ。
「ほう? そこまで言うのなら何か確証があるのだよな?」
浮かぶのは何物にも染まらぬような、不遜な笑みだ。
「アナタは、自分と情報局があたかも通じていたかのような嘘を、アキについた」
三ツ目の絞り出すような声が、室内に響く。
「ああ、事実だからな」
「違う……私の知る限り、そんな事実は存在しない。アナタは情報局とアキが二度と接触できないよう、彼を縛り付けるために偽りの情報を植え付けただけ」
「何を根拠に言っている?」
「情報局は……私の働きかけもあり、イノセントの監視から巧みに逃れていた。けれど、その後、彼らは一人残らず捕縛された」
「私が既に情報局と通じていたからだ。イノセントでも騒ぎが大きくなったので、連中もスケープゴートを差し出した。ただそれだけのことだ」
「違う!」
三ツ目の瞳に涙が溢れ、激情が堰を切ったように溢れ出す。
「その時期、初めて情報局の『裏切り者』がアナタに接触したはず! アナタはその裏切り者から得た情報を利用して、潜入員を根こそぎ捕らえた……。アナタは嘘つき! 情報局はアナタと通じてなんていない。アナタはただ、裏切り者を飼い慣らして情報を吸い上げただけ!」
僕は、必死に暴れる三ツ目を背後から押さえつける。初めて目の当たりにする、彼女の感情の爆発。
その言葉の意味を咀嚼しきれず、僕はただひたすらに困惑していた。
「お前の兄は、最後まで勇敢だったな」
美月が放った一言に、室内の空気が凍りついた。
彼は机に肘をつき、楽しげに口角を吊り上げている。
口の中の水分が瞬時に失われた。唾液すら飲み込めず、喉の奥から掠れた呻きが漏れる。
「美月……今のは、どういう?」
「ああ。三ツ目の兄も妹と同じく情報局の手先で、イノセントへの工作員だった。つまり、兄妹揃ってのスパイコンビだったわけだ。妹は天才ハッカー、兄も中々優秀だった……が、護衛は二人もいらん」
美月は僕に向かって、軽薄にウィンクしてみせた。
「お前の方が見た目も好みだったしな」
「……え?」
「見せしめは必要だ。私が始末するように命じた。ちなみに、レッカーに蹴り殺されたのが三ツ目の兄だよ」
その瞬間、パズルのピースが音を立てて繋がった。
三ツ目がなぜ、執拗に「裏切り者」の存在に固執していたのか。
彼女は最愛の兄を――その裏切り者の密告によって、奪われたのだ。
「やっぱり殺していたのか……! 嘘つき! ウソツキ! 協力すれば助けるって言ったのに!」
「何を言う。会議場で無残に転がっている男を見て、お前も薄々それを察していたはずだ。それなのに今まで私に付き従っていたのは自身の保身の為だろう? それが少し優しくしてやったくらいで立場を忘れ、あまつさえ反抗しだすとはな」
美月の言葉は氷のように冷たく、鋭利だった。
それを聞いて狂ったようにのたうち回る三ツ目。僕は彼女を必死に止めながら、目の前に座る男の底知れない暗部を、震える視界に収めていた。
「犬にも劣る不良品どもめ」
ゴンッ、と激しい衝撃。三ツ目の後頭部が僕の鼻頭を直撃した。
鼻腔を熱い血が伝い、口の中へと侵入する。それは、決別と失望が混ざり合った鉄の味がした。
「美月……君は……」
その時だった。
腕の中で暴れていた三ツ目が、ガクン、と糸の切れた人形のように脱力し、僕に寄りかかってきた。
咄嗟に抱き止め、彼女の体を支える。
「意外と時間がかかったな」
美月が腕時計に目を落とし、無機質な声を出す。
理解が追いつかない。次の瞬間、抗いようのない睡魔が激流となって僕を襲った。
三ツ目と同じように、膝から力が抜けて床へと崩れ落ちる。
視界が歪み、四肢の感覚が消失していく。
最後の力を振り絞って顔を上げると、そこには聖者のように無垢な、恐ろしいほどに澄んだ美月の顔があった。
「嘘つき。猫のような臆病者で、救いようのない愚か者。お前は最強の盾には、ほど遠い」
「ミツ……ッ……」
「クビだ。どこへなりとも、行くがいい。そして私の代わりに――」