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無垢なる者

 ピッピッ、という心音センサのような、生易しい音じゃない。  まるで家畜が屠殺されることを察知して、断末魔の悲鳴をあげるような――そんな強烈な音が鼓膜を揺さぶって、僕は目を覚ましていた。  ビーッ、ビーッ!  分かりやすく強力な警告音。馴染み深い空間である、軽自動車の後部座席にいることに気づくのに、数秒を有した。  そして、隣にはそんな状況にも関わらず寝息を立てる三ツ目サードアイの姿もあった。軽く揺さぶるが、起きる様子は無い。  僕は諦めてフロントガラスの先に映る景色を眺めてみて――絶句していた。  陽は落ちて、真っ暗だ。それでも明るい街頭のお陰で視界は保たれていた。  目の前に見えたのは電気柵の先に見える埠頭。それも、直進すれば真っ暗な海へと落ちることが確定したコースだった。  何故、という疑問を浮かべる前に、僕は行動を起こした。車両のコントロールを握るため、運転席へと座ろうとする。しかし、それは叶わなかった。僕の左腕は、ご丁寧なことに手錠で三ツ目サードアイの右腕と繋がれていたのだ。  どうしようか、逡巡する間も無いまま、車両目前に迫る街灯も無い桟橋、そしてその先で揺れる漆黒の海面。  僕が選択したのは、三ツ目サードアイを抱きかかえて衝撃に備える、ということだった。  桟橋から車両がジャンプしたのを感知しえた束の間、ありきたりな数秒のスローモーションの感覚を経て、僕は大きな衝撃と共に天井に頭をぶつけていた。  車体が海面に叩きつけられ、「ふわっ」と間抜けな声を漏らす三ツ目サードアイ。しかし、車両は止まった。  だが、ここからのフェーズは車内への浸水と、沈没だ。そして、僕はその船に乗っている。ならば、脱出しかない。  ヘッドレストを抜き取って窓をたたき割ろうとしたが、ヘッドレストは既に車内から抜き取られていた。誰が――なんてのはもう分かり切った疑問だ。美月ミツキだ。美月ミツキが抜き去ったのだ。 「アキ……」  ようやく三ツ目サードアイが目を覚ました。僕は抱きしめたままの彼女を解放し、視線を合わせる。 「どうやら……ここまでみたいだよ」  三ツ目サードアイは僕の言葉に目をぱちくりしたあと、 「どういう状況?」 「……起きたらこうなってた」  僕が呟くように言うと、三ツ目サードアイは目をぱちくりさせたあと、真っ青な顔色を浮かべた。 「もしかして……サナダ・ミツキが私たちを消すために?」 「いや……」  僕は車窓を眺め、ようやく車外で起こっている異変を感じ取っていた。 「ごめん、違うみたいだ」  車両は何故か、ぷかぷかと海面を浮き続けていた。  三ツ目サードアイを引き寄せながら車窓から海面と面しているはずの車体後部を覗き込むと、エアバックみたく膨らんだ風船が車体を包み、浮力を生じさせていた。 「……どういうこと?」  三ツ目サードアイの疑問に答えられないまま、数秒が過ぎ去った.。その時――  漆黒の海面に擬態し、ゆっくりと近づいてきた存在が、唐突にその身を主張するようにライトアップして、僕らを照らした。    眩げな光景に僕も三ツ目サードアイも顔を逸らす。しかし、その存在は近づくにつれ、ようやく詳細が明らかになっていた。  ライトアップした存在は、漁船程度の大きさの船だった。 『ああ、ああ――こちらイノセント海洋警察巡視船。これより、海面に浮かぶ怪しげな船へ、捜査を開始しまーす』  日本語、それも女性特有の高い声。拡声器を用いての言葉。  僕は思わず目を見開いた。  彼女の声音には、大いに聞き覚えがあったからだ。  ドッドッドッドというエンジン音とともに、船がさらに近づいてくる。ダイバーの恰好をした集団が海に飛び込んできて、ぷかぷかと浮かぶ僕らの車体のまわりにとりついた。 △  やがて、僕と三ツ目サードアイはダイバーの手によって船外へと救出された。手錠をペンチで断ち切ってもらい、這い上がるようにして乗り込んだのは、潮の香りが染み付いた古びた漁船だった。  甲板に集まっていた面々を見て、僕は思わず身構える。 「久しぶりね、明人アキヒト」  白煙の向こうから声をかけてきたのは、僕を『イノセント』へと送り込んだ張本人――情報局のエージェント、ナオミだった。  初対面なのか、ナオミに対し、三ツ目サードアイは警戒を隠そうともせず、僕の背後に身を隠した。 「どうして……君たちがここに?」  僕の問いに、ナオミは答えなかった。代わりに細い指先で煙草をくゆらせ、僕の背後から覗く三ツ目サードアイを、品定めするように見つめる。 「実物は初めてね。会えて光栄よ、三ツ目サードアイ」 「……どうも」 「あら、礼儀正しいのね。それに、想像していたよりずっと可愛い顔。ちょっとハグさせなさい」  ナオミが長い腕を伸ばすが、三ツ目サードアイは僕の体を盾にして、必死にその手を逃れた。  ナオミは「ちぇっ」と子供のように唇を尖らせた後、思い出したように言った。 「そういえば。あなたのお兄さんが、早く会いたいって言っていたわよ」  その言葉が投げかけられた瞬間、背後の三ツ目サードアイの気配が、凍りついたように固まった。 「……どういう意味?」  地を這うような低い声。それを受けたナオミは、彼女にしては珍しく困惑の色を見せながら説明を始めた。  彼女の話によれば三日前、美月ミツキから突如として情報局へコンタクトがあったのだという。 『捕らえた情報局のネズミは第三ゲートで全員引き渡す。迎えに来い』  情報局は罠を疑ったが、ナオミが独断で指定の場所へ赴くと、そこには本当に拘束されていた工作員たちが無傷で転がされていたのだそうだ。 「……あなたたちは、本当にサナダ・ミツキと繋がっていたの?」  詰め寄る三ツ目サードアイに、ナオミはあきれたように肩をすくめた。 「いや、だから言ったじゃない。あっちから一方的に連絡が来たのよ。今日のこのお迎えだって、美月ミツキ嬢が一方的に場所を指定してきたんだから」 「兄さんは……本当に、生きているの?」 「ええ、無事よ。お腹に殴られたみたいな痣はあったけど、内臓にダメージも無かったわ」  幽霊の話でも聞かされているかのような三ツ目サードアイとは対照的に、ナオミは面倒そうに煙草の灰を海へと落とした。 「なんなら本人に電話して確認する? 今は病院で検査入院しながら、のんびりしてると思うわよ」  差し出された携帯を、三ツ目サードアイは奪い取るようにして受け取り、震える指で通話ボタンを押した。  その様子を眺めていたナオミが、不意に僕へと視線を射抜いてきた。 「さてと、それで……裏切り者の明人アキヒト君、ご機嫌はいかがかしら?」  僕は口をつぐんだ。夢で見た情景――『曲者の僕』が交わした契約が本物なら、そうだ、僕は情報局の裏切り者だ。    美月ミツキへ正体を明かし、同僚である工作員を全てイノセントに売った。自身の証明と、売り込みのためだけに。  ナオミは僕の反応を見て、悪役のような笑みを浮かべる。 「美月ミツキ嬢からの情報提供だから言い逃れは出来ないわよ。それで、トレント時代の記憶は戻ったとみていいの?」 「全部じゃない。断片的な部分だけだ」  僕は話した。自分自身に関する曖昧な部分と、もう一人の自分の存在を。 「ふーん」  全てを聞き終えても、ナオミの相槌は興味無さげだった。 「本当だよ。これが、僕の全てだ」  曝け出した言葉を、ナオミはいつもの調子でタバコをくゆらせながら聞き流す。 「もう一人の自分が仲間を売った、か。都合の良い話ね。それを日本では何て言うか知ってる? 『全部秘書がやりました』よ」  僕が顔をしかめると、ナオミは可笑しそうに笑った。 「ま、いいけどね。どうせ駄目で元々の作戦。それに、ウチは期待されていなかったしね」 「……は?」 「これから日本とイノセントの戦争が始まる。水面下で阻止するフェーズは、もう終了したのよ」  僕は昂る感情を抑えきれず、拳を握りしめた。雅静ヤージンの筋書き通りだ。戦争を勃発させ、イノセント内部の人間を淘汰する。  その混乱の最中、美月ミツキは雅静ヤージンが手引きしたトレント社の刺客に殺される。 「何とか……できないかな」  呟くように言った。 「戦争を止める方法を知りたいの?」  僕は思わず顔を上げた。ナオミは吸い殻を指先で弾き飛ばし、海へと捨てた。 「中央区画のお姫さまが、なぜ全てを諦めてしまったか知ってる?」 「え……?」 「中央区画長が死亡すると、それによって戒厳令は即時停止され、新たな区画長選定のための選挙が実施される。口減らしが目的の雅静ヤージンは結局いずれは戦争を起こすでしょうけど、当面イノセント内外の被害は格段に抑えられるでしょうね」  僕はそこで、ようやく美月ミツキの思惑を悟った。  その時、脳裏にシンラの言葉がフラッシュバックする。 『誰も、何も殺さない方法を知っていますか?』  美月ミツキは自らの命を捧げ、イノセントの人々を救おうとしているのだ。 「させない」  思わず、声が出ていた。ナオミは新しいタバコを咥えたまま、動きを止める。 「させないって……どうするつもりよ?」 「美月ミツキを救う」 「そしたら、いっぱい人が死ぬわよ?」 「だとしても、だ」  ナオミは、聞き分けのない子供を叱る母親のように腰に手を当てた。 「美月ミツキ嬢を天国に行かせないつもり?」 「天国なんか――そんなもの、ないよ」  ナオミの唇が薄ら笑いに歪んだ。 「美月ミツキ嬢を救ったところで、清らかな彼女の心は、自身の責任の重さに耐えられなくなる。だから彼女は自死同然の道を選んでいるのよ?」 「僕にできるのは、彼女を救うことだけだ」 「おバカな明人アキヒトちゃん。美月ミツキ嬢を物理的に救おうが、彼女の心までは救われないのよ?」 「美月ミツキなら上手くやるさ。諦めるのをやめたら、何か別の方法を思いつくかもしれない。数万人が死ぬのなら、もっと多くの人間を救えばいい。それを美月ミツキなら――いや、それは彼女にしか、できないことなんだ」  自分でも無茶苦茶な理屈だと思った。数ヶ月過ごしても、僕は彼女を理解できてなどいなかった。  もしかすると、馬鹿な僕では彼女のことを一生理解できることは出来ないのかもしれない。  それでも、口に出さずにはいられなかった。孤独で、あまりに善人すぎる彼女が、誰にも理解されなかったと勘違いしたまま生涯を終えることだけは、どうしても我慢ならなかった。 「傲慢ね。それはアンタが、自分の子供じみた心を救うためにやることでしょ? 清廉な美月ミツキ嬢とはスケールが違うのよ」  知っている。そんなことは百も承知だ。だけど、僕はナオミを睨み続けた。  ナオミは呆れを通り越した瞳で、冷徹な事実を突きつける。 「どっちにしろ、間に合わないわ。現在は二十三時。戒厳令が施行される二十四時には、雅静ヤージンが雇ったであろう世界最強のトレント社の兵士たちが彼女を殺しに向かう。ここからどうやってお姫様を救うというのよ?」  僕は俯いた。物理的な制約が、距離が、絶望となってのしかかる。 「空中経由なら、間に合うはず」  僕の横に、小さな影が並んだ。涙の痕を残した三ツ目サードアイが、毅然と立っていた。 「大型ドローンを利用して、アキをそのまま美月ミツキ邸までデリバリーする。リスクはあるけど、それが最短で確実」  三ツ目サードアイは僕に視線を向けた。その瞳は、刺すように冷たい。 「話は電話をしながら聞いていた。裏切り者は……アナタだったのね」 「ごめん……」  謝って済む問題ではない。それでも、絞り出すように言った。  だが、三ツ目サードアイの瞳は揺らがなかった。 「兄は生きていた……けれど、それとは別に、貴方はやはり私の兄の代わりにはならない」  心臓を抉られるような痛みだった。孤独な僕にとって、彼女との歪な絆だけが救いだった。それが今、完全に断たれたのだと、勝手ながら絶望に沈んだ。  視線を逸らして数秒。彼女の言葉が続いた。 「でも――相棒としてなら」  僕は目を瞬いた。 「もしかして、手伝ってくれるの?」  三ツ目サードアイは、深く、一度だけ頷いた。 「私は、サナダ・ミツキに酷いことを言った。自分のことだけ考えている、血も涙もない人間だと思っていたから」  三ツ目サードアイの瞳が、再び潤む。 「でも、それは……私の方だった」  彼女は溢れたものを袖で乱暴に拭った。 「謝らなきゃいけない。彼女に」 「三ツ目サードアイ……」  触れようとした僕の指先を遮るように、ナオミがわざとらしく咳き込んだ。 「二人の世界に入るのは、もう少し後にしてくれる?」  ナオミは深いため息を吐き出す。 「えーと、その空中デリバリーとやらをやるとして、機材はどうするのよ? このボロ船に人を運べるドローンなんざ積んでないわよ」 「イノセントの警備用を流用する。ここからすぐのアパートに、私が秘密裏に設営していた高性能のPCと機材がある。本来はイノセントから逃走するために用意したもの」 「それを使うには、またイノセントに戻らなきゃいけないってこと?」 「そうなる」 「あのね、こっちにも段取りってものがあるのよ。イノセントに戻ったら、もう二度と迎えには来れないわよ?」 「……理解している」 「日本国籍の話も白紙。あんたらお馬鹿さんたちは、一生イノセントで骨を埋めるつもり? 首を長くして妹の帰りを待つ優しいお兄さんとも、二度と会えなくなるのよ?」  三ツ目サードアイはキュッと唇を結んだが、迷いはなかった。 「覚悟の上」 「僕もだ」  僕らの決意を聞き、ナオミは天を仰いで大きなため息を吐いた。 「ま、別にいいけどね。ただ、戻るというなら一つだけ条件を出すわ」 「条件?」 「私ら情報局としても、泥沼の戦争は困るのよ。かといって、日本にルーツを持つ穏健派の区画長を失うのは巨大な損失なの。日系の彼女がいるからこそ、政府は『イノセントは日本政府の管理下にある』なんてハッタリをかませるんだから。だとしたら――」 「だとしたら?」 「やるべきことは一つよ」  中央区画長を救い出し、戒厳令への停止命令を出させる。  そうなれば、全区画長の総意である戒厳を独断で翻した彼女への批判がイノセント内部で巻き起こり、情勢はさらに不安定になるだろう。だが―― 「今後、死んでもサナダ嬢を守りぬきなさい。彼女の命は、アンタらの何百倍も重いんだからね」